●現代に復活させる寺子屋教育の方法(1)家庭での自習
では、現代に復活させる寺子屋教育とは、どのようなものになるのでしょうか。
言葉の森では、寺子屋式の効率教育を進めるために、次のような計画を立てています。
第一は、家庭における自習です。
1番めの自習は、漢字の読みの先取りです。
現在の国語教育のように、学年別に配当された漢字の読みだけを学習していては、子供たちは学年別の本までしか読めません。現代の国語教育は、子供たちの読書の世界を児童図書に限定させています。
言葉の森は、新しい漢字学習のために、教育漢字約1000字と常用漢字約1000字の暗唱用の漢字集を作成しています。この漢字集で漢字の読みだけを先取りしたあとに、漢字の書き取りについては学年相当のものに取り組んでいきます。
2番めの自習は、英語の長文暗唱です。
語学は、小学校4年生から6年生の時期に、その言語で書かれた文章を丸ごと暗唱することによって土台が形成されます。
小学校3年生以下の外国語教育は、子供の母語である日本語能力の形成を阻害するおそれがあります。
中学生以降の教科書的な外国語教育は、知識を先行させる点で、その外国語の感覚を作る面での弱点があります。
小学校4年生から6年生は、外国語学習の最適期ですが、その学習法は、この時期に中学生以降の知識的英語を先取りすることではありません。英語を丸ごと聴き、読み、暗唱することによって、英語の感覚を作っていくことが大事です。
3番めの自習は、算数数学の問題演習です。
算数数学の勉強で重要なことのひとつは、計算の正確さと速さです。もうひとつは、問題の解法の理解です。
算数数学の勉強は、基本的な学力をつけることを目的にし、その学力をある程度まで先取りしていくという方法で取り組みます。
受験勉強的な意味で差のつく、間違えやすい、読み取りにくい文章題などの問題を、学年の早い時期から解く必要はありません。そういう難問は、基礎学力さえついていれば、受験の前の1年間の取り組みで十分に間に合うからです。
また、律儀に学年で定められた範囲までの勉強にとどめておく必要もありません。基本的な学力をつけるだけであれば、学年を超えた先取りは自然に行えます。しかし、それは先取り学習を目的としたものではなく、算数数学の世界を楽しむために自然に先まで進みたくなるという勉強にしていく必要があります。
この算数数学の勉強の教材は、市販の手に入りやすい問題集や参考書です。教科書は、教える先生の解説がないと使えない仕組みになっているので、教科書ではなく教科書レベルの詳しい問題集や参考書が必要になるのです。
4番めの自習は、日本語の長文の音読と暗唱です。
音読する長文の基準は、現代の日本語で書かれた美しくわかりやすい説明文です。
科学や社会や人生について考えを深められるような構造的な内容を持ち、リズミカルな文体で、時に明るい笑いがあり、勇気と知性と愛と日本文化を感じさせる文章の長文を教材にしていく必要があります。
こういう長文を、オープン教育でオリジナルに作成し、子供たちの理解力、思考力、表現力の基礎を作ります。
そのほかの自習には、読書、問題集読書などもあります。
また、将来は、理科、社会、音楽、体育、ロボットプログラミングなどの多様な文化的自習も行えるようになるでしょう。
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●創造教育を支えるための効率教育
作文を中心とした創造教育を進めるためには、子供にも大人にも余裕がなければなりません。今の教育で子供たちの時間的余裕を奪っているものは、低学年からの受験的な勉強です。
受験勉強の本質は、他人と点数の差をつけるための勉強です。だから、勉強が過熱するにつれて、受験勉強は、理解を深めるための勉強から次第に変質していきます。
今の受験勉強のかなりの部分は、社会に出てからは役に立たない、重箱の隅をつつくような知識のパズルになっています。しかも、それが受験のための最後の1年間だけでなく、低学年から受験勉強の先取りとして取り組まれているところに問題があります。
小学校の低中学年は、勉強という狭い目的に限定されない自由な時間によって好奇心を伸ばし、学力の厚みをつける時期です。それが、将来の創造性や意欲の土台になります。
ところが、現代では、よくできるような子ほど、早期の受験勉強的な教育によって薄い表面的な学力をつけることになっています。
そこで、言葉の森が考えているのが効率教育です。
創造教育にかける時間の余裕を確保するために、教科の勉強はもっと効率的に行っていく必要があるのです。
●効率教育の見本としての江戸時代の寺子屋
効率教育の最も優れた見本は、江戸時代の寺子屋教育です。
寺子屋は、子供たちの自学自習を基本としていたので、教材も指導法も高度に単純化されており、教えるための大人の負担も現在よりもかなり軽減されていました。ほとんどの子が一定の水準までの学力をつけることができ、勉強の好きな子は更に深く学ぶことができました。
この寺子屋式の教育を現代に生かすことは、日本の教育の改革にとどまらず、世界の教育の改革につながります。
現在、世界には、学校も教科書も先生もない地域で暮らす子供たちが数多くいます。その子供たちに教育の機会を与えるために学校作りから始めていたのでは、教育の機会はなかなか広がりません。
そして、もしそういう学校が世界中にできたとしても、現代の学校教育は、既に先進国では行き詰まりを見せています。その証拠に、現代の学校教育は、子供たちの間にある格差に十分に対応できていません。学力の高い子を伸ばすことができないだけでなく、学力の低い子を引き上げることも十分にできていません。
そして、こういう学校業育を改善する方法として考えられているのは、少人数学級で先生の数を増やすという単なる量的な対策です。
現代の教育を真に改善するためには、量的な対策ではなく、質的な対策が必要です。その質的な対策をひとことで言えば、学校教育から寺子屋教育へという方向なのです。
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●創造を支える創造教育の要としての言語
価値の源泉である創造を支えるものが、ひとつは創造教育で、もうひとつは創造文化です。
創造教育の要になるものは、言語です。
人間は、物を作るときでも言葉を使って考えます。この言葉が創造において重要な役割を果たしています。それは、言葉というものが不完全なものだからです。
完全なものは、新たなものを生み出しません。地球上の動植物は、進化という大きな流れの中で見れば不完全ですが、個体の生存という短い時間の中で見ればほぼ完全な生活をしています。
鳥は飛びたければ空を飛び、魚は泳ぎたければ水の中を泳ぎます。人間以外の動植物は、完全性の中に生きているので、創造の必要性を感じません。
人間も、言葉を持たなければ、あるいはテレパシーのような完全な言葉を持っていれば、創造の必要性を感じなかったでしょう。
不完全な言葉を使ってものを考えることによって、生活の中に創造の必要性が生まれてくるのです。
●創造的な言語教育としての作文
人間の持つ不完全な言語を、その不完全性を生かして学習する教科が作文です。
作文には答えがありません。漢字の書き取りや選択式の読解問題は、答えがあるという点で、本質的な言語教育ではありません。それは言語を使うための準備の教育です。
作文に答えがないのと同様に、本来、あらゆる学問には、数学や科学も含めて答えというものがありません。しかし、それらの学問において答えのない境地にまで到達できるのは、それらの勉強の土台をほぼ完璧に習得したあとです。だから、学問の世界で創造を行うためには、長い準備のための学習期間が必要なのです。
作文は、そのような長い学習期間を必要とせず、文字さえ書ければすでにその不完全性を活用することができます。この点で、作文は創造性を育てる最適な教科であると言えるのです。
●言葉の森の作文教育(1)項目作文
言葉の森は、作文教育の方法をいくつか考案しています。
第一は、項目作文です。書く項目をあらかじめ決めて作文を書くことによって、創造のきっかけを作る作文の書き方です。
例えば、「複数の方法で書く」という項目のときは、テーマに合わせた複数の方法を考えださなければなりません。「たとえを書く」という項目のときは、その文章の流れに合わせたたとえを作り出す必要があります。
このような事前の項目指導によって作文を書く方法が項目作文の方法です。
●言葉の森の作文教育(2)森リンテクノロジー
第二は、森リンテクノロジーです。森リンとは、文章に出てくる語彙によって作文を評価する自動採点ソフトです。
森リンは、作文という本来内容的にしか評価できないものを、語彙という外形的なところから評価します。この森リンの評価によって、どれだけ多様な語彙で(ということはどれだけ具体的に)、またどれだけ論理的に(ということはどれだけ深く考えて)書いたかということが形式と内容の相関関係として評価できます。
●言葉の森の作文教育(3)長文音読と対話
第三は、作文の予習としての長文音読と対話です。
作文を充実させるのは、書いている間のアドバイスや、書き終えたあとの添削ではなく、書く前の事前の準備としての長文音読と対話です。
音読の反復によって文章の内容を深く読み取り理解する力がつき、家族との対話によって理解のための語彙力と表現のための語彙力が向上します。
作文は、理解と思考の結果です。結果に手を加えても、作文力は向上しません。作文の学習は、書く前と書いている間が勉強の中心で、書いたあとの評価は、その次に書く前の指導と結びついて初めて意味あるものになるのです。
●言葉の森の作文教育(4)プレゼン作文
第四は、プレゼン作文です。作文は、発表することによって輪郭が明確になります。はっきりした輪郭を持つものは、自分にとっても他人にとっても、次の創作の土台になります。
その発表を単なる文章の発表で終わらせずに、画像や音楽と組み合わせひとつの新しい総合芸術的な作品として発表するのがプレゼン作文です。
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今、世界は大きく変わっています。それも、大きくよい方向に変化しています。
この方向は、人類の集合意識が選択したこととも思われるので、もう後戻りはしないでしょう。
だから、今することは、現在の社会に残っているさまざまな欠陥を批判することではなく、やがて来る新しい自由で平和な社会で、どう生きていくかというビジョンを持つことです。
そして、そのビジョンを現実の実行に結びつけることです。
この記事では、最初に、価値の源泉のような抽象的な話から始め、最後は、言葉の森のオープン教育の具体的な実践に結びつけていきます。
●価値の源泉は創造にある
世界の未来の展望を考えるときに、まず大切なことは、価値の源泉がどこにあるかということです。
価値の源泉は、人間の創造の中にあります。
創造はもちろん、人間だけが行っているものではありません。植物の発明した画期的な創造のひとつは光合成です。植物は、光合成という方法の創造によって、太陽エネルギーから、地上の生物が利用できる炭水化物を作り出しました。
その創造は、その後に続く生物のさまざまな創造の連鎖に発展していきました。
これらの動植物の行ってきた創造と比べて、質量ともに更に大きな可能性を秘めているのが人間の持つ創造性です。
しかし、その多くはまだ可能性のままとどまっていて、これからの開花を待っています。
地上に住む70億の人間の創造性が花開き始めたとき、地球は大きく変わるでしょう。人類は、今その一歩手前にいるのです。
●価格として表れているものと価値との相違
現代の社会では、多くの人が価値の本質を誤解しています。
価値はマネーの中にあるのでもなく、エネルギー資源の中にあるのでもなく、商品の中にあるのでもありません。また、人間の労働の中にあるのでもなく、土地の中にあるのでもなく、資本の中にあるのでもありません。もちろん、軍事力の中にあるのでもなく、政治権力の中にあるのでもありません。
これらの中にある価値と思われるものは、取引をする上での価格のようなものです。需要と供給の関係で生まれた濃度の差が価格です。
価格は単なる濃度の差で、その濃度そのものを生み出しているのが価値です。その価値の源泉が創造です。
しかし、創造とは最初の1回限りのものであって、世界を豊かにしているのは、その創造のコピーです。
最初に生まれた光合成の方法は創造でした。今行われている世界中の植物の光合成はそのコピーであって創造そのものではありません。
創造そのものは、これから地球上の人間が日々無数に作り出していくのです。
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今年2013年は、不安が安心に変わり、守りの姿勢が、攻めというのではなく平常の姿勢に戻った1年でした。
11月に入るころから、歴史の流れが、これまでの混沌から、よりよい方向に変化していく感じを持ちました。
2014年は、新しい飛躍の年です。
これまでの闘争の時代から建設の時代へと、舞台が変わる年になると思います。
明日、そのあたりの事情を9000字ぐらいの長い記事としてホームページにアップする予定です。(この年末の誰も読まない時期に)
それでは、皆様、よい年をお迎えください。
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