これまでの教育の目標は、学力の向上でした。
それは、ある程度まで成果を上げていました。
しかし、今、新しく学力格差の問題が生まれています。学校で同じように勉強を教えてもらっても、ついてこられない子が生まれているのです。そして、それは、次第に低年齢化しています。つまり、学年が上がるにつれて、ますます学力格差が広がるような状況が生まれているのです。
学力格差とは別に生まれているもうひとつの問題は、学力の高い子における問題です。学力にだけ目を向けて行われる教育のために、学力以外の要素が不問に付され、その結果人間的なバランスの欠けた学力だけの子供たちが育っていることです。
この原因の第一は、学力をつけるための方法が確立していないことにあります。その結果、勉強は教えてもらっても、勉強の方法を教えてもらっていない多くdの子供たちは学力不足になり、一方、勉強だけを学校とは別の学習として教えてもらっている子供たちは、勉強以外の要素を欠落させたまま学力をつけるようになっているのです。
この場合の勉強の方法とは、学齢期になってからの方法だけではありません。むしろ、幼児期からの過程における子供の育て方こそが教育の重要な方法です。子供たちの学力は、決してDNAなどで決まっているものではありません。学力のほとんどは、後天的につまり教育的に作られるものです。しかし、家庭における子育ての方法はまちまちなので、小学校に入学するときには既に学力の差がついています。もちろんそれは、単純に早めに塾に行って勉強したから学力がつくというものではありません。逆に早めの塾通いや、長時間の勉強は子供の学力を低下させます。家庭における子供の教育という方法がないために、広範な低学力と歪んだ高学力が同時に生まれているのです。
将来、家庭における教育の方法が確立すれば、今あるような学力格差はなくなり、すべての子が高度な学力を持ち、しかも学力だけにとらわれない幅広い人間性も持つようになります。そのひとつの未来のイメージが、全国学力テストで上位になった秋田県や福井県の教育に現れています。学力が上位の県は、学習塾が普及し子供たちが朝から晩まで勉強に追われているところではなく、学校が毎日宿題を出し家庭がその宿題を毎日やらせるという学校と家庭の連携ができているところでした。つまり、教育の方法を学校と家庭で共有できている県が、学力の上位を占めていたのです。
同じように、幼児期からの学力向上の方法が確立されれば、小学校に上がる段階でもう既にみんな横並びの学力をつけていることになるでしょう。だれもが高校3年生まで、学力の格差などほとんどなく全教科の学力をつけるようになるのが未来の教育の姿です。(つづく)
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神田昌典さんの「2022-これから10年、活躍できる人の条件」を読みました。神田さんは、もうすぐ会社はなくなる。世の中は大きく変わる。これまでの社会でいいと思われていたことはかえって悪いと思われるようになる。社会が百八十度転換するということを述べています。これは、多くの人が漠然と感じ始めていることではないかと思います。これまでの価値観の延長ではやっていけないと多くの人が思い始めているのです。やっていけないどころか、今の社会でいいと思われていることが、未来の社会ではかえって足を引っ張ることになる可能性もあるのです。
(以下は、神田さんの本から離れて考えた話です)
今の世の中を支えているものは、会社(企業)です。その会社がなくなるというのは、なぜなのでしょうか。それは、会社というものが、もともと限りなく人件費を少なくする方向に進化していくものだからです。今、世の中にある仕事の中で、人間でなければできないものはそれほど多くありません。人間でなければできない仕事とは、つきつめればその人の個性を生かして創造するような仕事です。しかし、今の仕事のほとんどは、ほかのだれかに肩代わりできるもので、更に言えば、人間そのものを必要としない仕事なのです。
会社の進化する究極の姿は、無人の工場、無人のサービス業です。産業は、常に無人化の方向に進化しています。サービス業では触れ合いが大切だと考える人がいるかもしれませんが、人間は仲間どうしの触れ合いがあれば、それ以上にサービスを提供する仕事の中に触れ合いを求めるような必要は感じません。
これまでの社会は、会社があり仕事があるということを前提にして成り立っていました。いい会社に入るため、いい仕事につくために、いい学校に入る必要があり、そのために勉強をするというのが勉強の目的になっていました。その前提が大きく崩れつつある現在は、勉強のあり方も大きく変化していく必要があるのです。
では、これからの仕事はどうなるのでしょうか。これからは、会社に勤めるとか、資格を取るとかいう形で、社会に既に用意されている役割をこなすような仕事はなくなっていきます。あらゆる仕事は、必要悪のようなものと見なされ、さまざまな分野で機械化、自動化が進行していきます。そして、人間のかかわりが必要な仕事については、サービス業や役所の仕事としてではなく、家庭や地域で自主的に処理していくものとなっていくでしょう。
そういう時代に生き残る仕事とは、人間がその個性を生かして新しい価値を世の中に創造していくような仕事です。個性的で創造的な学問、芸術、技術、表現、発明、発見などが、人間の仕事の中心になっていきます。しかし、そういう仕事をする力を身につけるために必要な第一のものは時間です。創造的な個性は、お金で買えるものではありません。また、学力だけで達成できるものでもありません。ある人が、自分の関心のあるものに長い時間取り組むことによって次第に身についてくるものです。
未来の社会では、人間の生活の中心は、この時間をかけること、つまり修行のようなものになります。創造的な個性を持つ師匠を見つけ、その技を習い、やがて自分もその技に自分の個性を加味して使えるようになり、今度は自分が師匠として弟子に教えていく、というようなサイクルが人間の一生のサイクルの基本になってくるのです。
このような社会では、勉強の性格も大きく変化します。これまでの勉強は、学力をつけることを目的としていました。学力はそのまま成績として評価され、入学試験の選抜の基準となり、志望校に合格できれば、それで勉強の目的は達成されたと見なされました。
しかし、これからの社会ではそうではありません。これからの仕事は、いい学校に入ったり、会社に入ったり、資格を取ったりすることによって手に入るものではなく、長い修行の中で自分の個性を創造的に高めていく中で手に入るものになるからです。だから、勉強の目的は、自分の個性を発揮する土台を作るということになってきます。
学力が三角形の底辺で、個性が三角形の高さだとすると、これまでの社会は、底辺の長さだけで評価を済ませていた社会でした。これからはそうではありません。学力の底辺は、個性という高さと組み合わさって初めて意味あるものになります。この勉強の性格の違いが、勉強のあり方にも大きく影響してきます。
幅広い学力をつけるという点では、これまでの社会もこれからの社会も変わりません。しかし、これからの社会では、そこに自分の個性を生かすという目的が加わってきます。個性を生かすとは、自分の好きな分野を見つけ、そこで時間をかけて修行することです。個性を価値ある創造性にまで高めることが修行です。従来の学力をつける勉強に加えて、この修行をすることがこれからの勉強の大きな柱になってくるのです。
では、そこで作文の勉強はどういう意味があるかというと、作る勉強としての意義がはっきりしてくるということです。従来の勉強のほとんどは、吸収する勉強でした。与えられたものを理解し吸収し再現できることが、勉強の大きな目標になっていました。しかし、これからの仕事は、自ら作り出す仕事になります。この作り出す仕事に対応する勉強が、作り出す勉強としての作文になっていくのです。
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公立中高一貫校で作文の試験がよく出されますが、その時間と字数は、普通の小学生が書くにはかなり厳しい制限になっています。中には、30分で800字の作文を書かせるところもありますが、これは大人でもそういう訓練をしていなければ書けるものではありません。
作文を書くスピードを上げるコツはいくつかありますが、その中でいちばん大事なものは、先に全体の構成を書くという書き方をすることです。
一般に文書を書くには、二つの方法があります。ひとつは、書きながら考えるという書き方です。日常生活で文章を書くときは、ほとんど、この書きながら考え、考えながら書くという書き方をしています。自分の書いた文に触発されて次の考えが浮かび、その考えをもとに文を書くと、その文に引きずられてまた考えがわいてくるという書き方です。
しかし、こういう書き方は、日記を書くようなときには自然に書けますが、作文の試験のときは、この書き方では当たり外れが大きすぎます。悪く言えば、行きあたりばったりの書き方になってしまうからです。
もうひとつの書き方は、あらかじめ全体の構成を考えてから書くという書き方です。これが、言葉の森で勉強している構成を考えて書く作文です。言葉の森では、小学校6年生の説明文あたりから、全体の構成を意識して作文を書くようにしています。第一段落はこんな話、第二段落はあんな話、そして、第三段落はこうで、第四段落はこう、という説明を聞いてから作文を書きます。こういう練習をしていると、自然に、全体の構成を考えて書くというコツがわかってきます。
作文試験の本番でも、作文を書く前に、配られた用紙の余白に小さくメモを3、4個書きます。そして、作文を書き始めたらほぼノンストップで書いていきます。もし途中で、このあと何を書いていこうかと迷ったら、すぐにメモを見て全体の方向を確認し、またノンストップで書き続けるという書き方です。
しかし、この構成を重視して書く書き方は、書いていて面白くはありません。書くということは、自分の考えを創造していく過程ですから、あらかじめ全体の構成を書いて書くというのは、清書を書いているようなものであまり面白くはないのです。
そこで、普段の勉強では、この二つの書き方、考えながら書く書き方と、考えたあとに書く書き方を組み合わせるようにしています。
考えながら書くというのは、書いていて面白いものですが、そのまま文章として書くのでは時間がかかってしまいます。そこで、構成図を書いて考えるようにします。構成図とは、自分の頭の中にある材料を散らし書き風に並べていく書き方です。この構成図で自分の思いついたことを矢印でつなげながら次々と書いていきます。これが考える過程になります。構成図はまとまった文章として書くわけではありませんから、文章を書くよりもずっと早く自分の考えを深めることができます。
しかし、この構成図だけでは、他人が読んでもよくわかりません。そこで、構成図で考えた結果を、今度は全体の構成をあらかじめ考えたうえで書いていきます。
このように、構成図で考え、構成作文で仕上げるという書き方をすれば、考える楽しさも味わえ、すばやく書くこともできるのです。
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