社会人になると、無駄のない能率的な行動が要求されるようになります。そういう状態に慣れると、つい子供に対しても能率を要求してしまいます。
しかし、大人にとって必要なものと、成長期の子供にとって必要なものは、おのずから異なります。大人にとって大事なのは、結果であり勝敗です。子供にとって大事なことは、結果ではなく過程であり、勝敗ではなく向上や成長なのです。
そのことが最も特徴的に表れるのが遊びです。
子供たちは、大人から見れば意味のないものによく熱中します。例えば、電車の名前を覚える、酒瓶のふたを集める、秘密基地を作る、などです。大人の能率から考えれば、電車の名前を覚えるよりも県庁所在地でも覚えていた方が役に立つと言いたいところです。ところが、大事なのは結果ではありません。
一見無駄に見えることに熱中しているときに、子供は、集中力や持続力や自主性や思考力を育てているのです。言わば、将来大きな木になるために、地中に深く根を張っている最中なのです。
無駄を排して見た目の結果を重視するのは、子供のエネルギーを、根を張ることよりも花を咲かせることに向けてしまうことにつながります。
不思議なことに、社会に出てから活躍している人の多くは、子供のころ、朝から晩まで熱中して遊んだという経験を持っています。決して、子供のころからこつこつと倦(う)まず弛(たゆ)まず同じペースで努力して大人になったというのではありません。
しかし、現代は、子供が熱中して遊びに没頭できる機会が少ないのも事実です。子供が地域で遊べるような環境を作ることも、これからの教育の重要な役割になってくると思います。
親が心がける第一のことは、まず小学校低中学年のころに勉強をさせすぎないということです。勉強は必要ですが、学年が上がるにつれて徐々に増やしていくものです。そのうちに、中3や高3の受験期になれば、子供は親が止めても朝から晩まで勉強するようになります。そういう時期になるまでは、ほどほどにやっておくぐらいがいいのです。
第二は、親はいつも、子供が楽しく笑顔でいられるように心がけることです。真面目な親ほど、小言を言ったり叱ったり注意したりすることによって子供が成長するように考えがちですが、子供は楽しく笑っているときにいちばんよく成長します。
子供の教育にとって大事なことは、大人の生活とは違ってある種の強制と無駄であり、その具体的な形が読書と遊びということになります。更に、その読書と遊びを補強するものが、親の笑顔に支えられた明るい家庭生活なのです。
自由は、人間の本質的な欲求です。強制を喜ぶような人はいません。
また、無駄のない能率のよさは、社会人にとって必須の能力です。能率の悪いことが評価されるような場所はありません。
しかし、こういう大人の社会に長いこと属していると、成長期の子供にも同じような物差を適用してしまいがちです。
その一つが、強制と自由についてです。自由を肯定するあまり、教育における強制の持つ意義を過小評価してしまうのです。
大人は、自由に九九が言えます。日常生活の中で掛け算を自分の手足のように自由に使って生活しています。しかし、それは小学2年生のころに、九九を覚えさせられるという強制があったからできることです。
日常のしつけも同様です。あいさつをする、靴をそろえる、イスをしまう、姿勢をよくする、ていねいな言葉をつかう、などは、自然に身につくものではありません。
日本の文化に属していると、強制という意識はあまりありませんが、やはり文化的な強制によって初めてそのようなしつけが身についたのです。
この自由と強制の問題が、現在、特徴的に表れているのが読書の分野です。それは、読書については、かつてあったような文化的、社会的な強制の環境が大きく変化しているからです。
今の大人が子供の時代には、家庭での娯楽は、読書やテレビぐらいしかありませんでした。読書以外の娯楽が乏しいという環境に強制されて、本を読む力を身につけていったのです。
しかし、大人になったころには、自分が強制的な環境で本を読むようになったことを忘れて自由に好きな本を読むという結果だけを読書と考えてしまうようになります。
そのため、つい子供にも、読書は自分の好きなものを自由に読むべきだと考えてしまうのです。
現代の社会は、テレビ、ケータイ、ゲーム、インターネットなど、読書以外の娯楽が豊富です。また、読書のような体裁を伴った、ビジュアルな絵だけで大体の理解ができる学習漫画のようなものも増えています。この豊富な娯楽の環境で、大人のレベルと同じように自由に任せていれば、読書の習慣は決して自然には身につきません。
また、読書には、年齢による発展段階があります。幼児期に読み聞かせをたっぷりしたからといって、その後、小中高と自動的に本を読むようになるわけではありません。それぞれの学年で少しずつ難しい本もよむように読書の質が発展していくのです。
こう考えると、読書については、しつけと同じようにある程度の強制が必要なのだということがわかります。しつけは見た目でわかりますが、読書力の有無は見た目ではわからないので、しつけ以上に意識的な強制が必要になってくるのです。
強制という言葉はあまり印象がよくありませんが、実際にやることは次のようなことです。
毎日、夕方の勉強が終わったら、最後に必ず本を10ページ以上読むことを生活の習慣にするということです(読む力のある子はページ数を増やしてもかまいません)。そして、夕方の時間があまりとれないときでも、宿題や習い事の時間よりも読書の時間をまず優先して確保するということです。