ミニホテイアオイ
●動画:https://youtu.be/EJufJGfmmEY
 昔の世代の人たちの中には、学校に行くよりも社会に出て仕事を早く覚えた方がいいと考える人が数多くいました。
 法隆寺の宮大工として知られている西岡常一さんも、大学の工学部に進みたかったそうですが、そんなところに行っても何も身につかないといって止められたそうです。
 確かに、人生で大事なのは、社会に出て仕事をすることです。
 その準備として大学で勉強することはありますが、大学に行くことがゴールなのではありません。
 中には、西岡常一さんのように、大学に行くことがマイナスになるかもしれないという人もいるでしょう。
 しかし、今の社会は、大学がゴールになっている面が強いので、子供たちはそこで優越感を持ったり劣等感を持ったりしてしまいます。
 本来、能力を持った多くの子供たちが、不要な劣等感で勉強を避けるようになるのは、もったいないことです。
 学校の成績というものは、本気でがんばっても数ヶ月かけなければ成果は見えてきません。
 だから、ほとんどの子は、途中であきらめてしまいます。
 これが、今日の教育問題の背景にあります。
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なぜ「無気力な生徒」が増えたのか…“低偏差値高校”から見える日本の教育の「大きな問題点」
https://gendai.media/articles/-/114206
「取り組まなくてはいけないのは、高校そのものの改革もありますが、まずは小中学校のほうでしょう。小中学校時代の教育を抜本的に変えていき、わからない分野を最低限理解できるまで丁寧に教えるという取り組みが必要です。
そのためには、1クラスあたりの人数を40人から半分の20人にする少人数クラス制を実施したり、教員の数を増やしたりすることが急務となります。もちろん、それでもすぐに解決できる問題ではないので、長期的な視座が必要となるでしょう。」
(児美川 孝一郎)
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 「40人学級を20人学級にする」とか、「教育の数を増やす」とかいうことは、解決の方向のひとつですが、「すぐに解決できる問題ではない」ことは誰にでもわかります。
 この考え方の根底にある考えが、リアルな通学式の学校教育だからです。
 40人学級を20人学級にしても、それでは、全然少人数ではありません。
 1人の先生が、20人の生徒を個別に指導することはまずできません。
 トルストイは、「アンナ・カレーニナ」の中で、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と書きました。
 成績のいい子はどれも似たものですから、集団一斉指導ができます。
 成績の悪い子はそれぞれに悪いのですから、個別指導でしか対応できません。
 リアルの通学式の教室で、成績が同じ分野で同じように悪い生徒を20人集めて一斉指導をするということは、理屈の上ではできますが、現実にはそういうことはありえません。
 しかし、オンライン教育であれば、全国から、同じ分野で同じように成績が悪い子を集めることはすぐにできます。
 逆に、成績のよい子に関しても、全国から、同じ分野で同じように成績がよい子を集めることもすぐにできます。
 だから、オンライン教育が、教育の根本的な改善の鍵なのです。
 これが、今、言葉の森が実践していることです。
 オンライン教育であっても、先生が一方的に講義をするような教え方ではなく、生徒一人ひとりが主体的に参加する教育にするためには、人数は5人以内に絞ることが必要です。
 では、そのための先生の数は多くなるかというと、そういうことはありません。
 オンライン教育であれば、先生は、数多くの5人クラスを持つことができるからです。
 言葉の森では、今、数百人の5人クラスの生徒を、数十人の講師がそれぞれに教えています。
 しかも、オンライン教育なので、生徒は自宅から受講し、講師は自宅から指導をしています。
 だから、生徒も講師も、日本全国(海外も含めて)から参加できます。
 しかも、5人以内のクラスですから、生徒どうしの交流があります。
 これが、未来の教育の方向です。
 現在、世の中にあるオンライン教育の多くは、リアルな通学式教育をただコピーしただけのものです。
 リアル教育の劣化コピーであるオンライン教育では、今日の教育問題は解決しません。
 教育関係者の多くが、このオンライン教育の可能性に気づいていないことが、今日の教育問題のひとつの大きな原因です。
 もちろん、言葉の森のオンライン教育は、まだ完成したものではありません。
 その理由は、同じレベルの生徒が5人集まるクラスを作るためには、母集団の数がまだ少ないからです。
 しかし、すでに、同じ学年で同じように優秀な生徒が5人集まるクラスもできています。
 このオンライン少人数クラスが広がれば、生徒たちの勉強は楽しくなり、先生の仕事も楽しくなり、今の日本にある教育問題のほとんどは解決すると思います。
 
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小菊
●動画:https://youtu.be/vS4kbpH5nno
 子供たちが、学校の勉強の中で、何を頭に入れ、何を記憶に残していくかということは、よく考えなければなりません。
 私(森川林)は、幼稚園と小学校1、2年生のころはよく覚えていますが、小学校3、4年生は、ほとんど全く記憶にありません。
 たぶんその時期、自分は学校生活の中で生きていなかったのだと思います。
 学校の生活が面白いかどうかということは、子供の成長に大きく影響しています。
 学校の勉強で、子供たちの中に残るものは、授業の内容ではありません。
 みんなの前で発表したこととか、友達と話をしたこととか、または先生の脱線した話とか、そういうものが残っています。
 勉強は、もともと自分ひとりでやればいいものです。
 昔の子は、塾にも予備校に行かずに、自分の家で勉強していました。
 そして、その人たちが成長して、日本の発展を支えるようになりました。
 今の子供たちは、確かに昔よりも成績は良くなっています。
 しかし、考える力は、かえって低下しつつあるように思うときがあります。
 子供たちの教育に何が必要かというと、まず、教育の目的を、大学入試のような近視眼的なところにではなく、社会に出て活躍するところに置くことです。
 社会生活が、本当のゴールだと考えることです。
 低学年から、何とか検定のように目標を持って勉強するのは、それなりに面白いことです。
 しかし、そういう勉強に力を入れるよりも、もっと大事なことは、読書をすことと遊びに熱中することです。
 読書は、考える力を育てます。
 遊びは、生きる意欲を育てます。
 思考力と意欲さえあれば、受験のための勉強は、必要になったときにすぐにできるようになります。
 勉強は、早めに先に進んでいればいいというのではありません。
 逆に、先に進ませようとしすぎて、子供が勉強に面白みを感じなくなってしまうことさえあります。
 教育の基本は、家庭学習です。
 そして、親子の対話です。
 そして、読書の習慣です。
 そして、子供が何かに熱中する時間があることです。
 言葉の森のオンラインクラスは、授業の中で学習のチェックはしますが、先生が講義をするのではありません。
 少人数のクラスで、ほかの生徒と一緒に勉強するところに意味があります。
 みんなで一緒に勉強をするので、ひとりだけさぼるわけにいきません。
 これが、少人数クラスのいいところです。
 また、生徒どうしの交流を深めるために、読書紹介や一人一言という全員発表の時間を作っています。
 そして、先生が時々脱線した話をします。
 子供たちに勉強として残るのは、家庭学習です。
 子供たちに人生の経験として残るのは、自分が発表したこと、他の生徒と話をしたこと、そして先生の雑談を聞いたことです。
 だから、私は時々子供たちの発言の中で、気になることがあると、時間はかかっても、あえてその場で言うようにしています。
 例えば、子供たちはよく先生の悪口を言うことがあります。
 しかし、私たち大人は、長年生きているので、みんなそれなりに苦労しているということを知っています。
 単純に悪い人というのは、世の中にはいません。
 そういうことを子供たちに言っておく必要があります。
 逆に、単純に言わなければならないこともあります。
 例えば、戦争の悲惨さのような話をする子がいた場合、問題なのは、戦争の結果ではなく、その戦争を起こした人がいたことだということを言います。
 言うべき内容に、マニュアルはありません。
 ある子についてAと言ったことを、ほかの子についてはBと言うこともあります。
 そのようなことを判断するのは、長年いろいろな経験をしてきたベテランの先生の直感です。
 幸い、言葉の森の講師は、長年作文教育を続けてきた優れた先生が揃っています。
 そういう先生の力がよりよく発揮できるような教室運営をしていきたいと思っています。
 
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シジミチョウ
●動画:https://youtu.be/RxUeltXORR8
 中学受験にしろ、高校受験にしろ、受験勉強は、全力で取り組むことが必要です。
 次々に出される宿題や、次々に行われるテストに合わせて、生活を受験一色にして取り組むのです。
 人間は、何かに熱中する時期が1年間ぐらい続くことがあります。
 そこで得られるものは、もちろんあります。
 しかし、忘れてはならないものもあります。
 それは、人間として正しい成長をすることです。
 正しい成長とは、ひとことで言えば、思考力、創造力、共感力を育てることです。
 人生は、入試のあとも長く続きます。
 その長く続く人生を有意義にするのが、考える力、創造する力、共感する力です。
 小学1・2・3年生から作文の勉強を始めた生徒は、小学4年生になると、自由に上手な作文を書けるようになります。
 しかし、上手な作文を書くことが、作文の勉強の目的ではありません。
 小学5・6年生になると、作文の課題が抽象的になります。
 「人間とは」とか、「友情とは」とか、「優しさとは」とかいうテーマが出てきます。
 そのときに、ありあわせの知識でお茶を濁した作文を書くこともできます。
 しかし、そこで、お父さんやお母さんと話をして、より深い考えを持つこともできるのです。
 また、読書は、受験勉強には直接結びつきません。
 本当は、読書力のある生徒は、国語だけでなく算数も英語もできるようになるのですが、それは即効的にそうなるのではありません。
 だから、受験勉強の間は、読書は少なめになってもやむを得ません。
 しかし、読書は、受験後の勉強や生活に生きてきます。
 この受験後の生活の方がずっと長いのですから、読書の習慣は絶やさないようにすることが大事です。
 読書と作文の勉強を続ける最初の選択は、小学4年生ごろに来ます。
 受験する生徒は、塾の勉強が忙しくなるので、読書と作文を続けられなくなります。
 しかし、ここで将来のことを考えて、読書と作文は忙しくなっても続けていくという選択をすることが大事です。
 その選択が、あとで生きてくるのです。
 小学4年生は、普通に作文が上手に書けるようになる時期です。
 しかし、それは普通の生活作文であって、小学5、6年生から始める説明文ではありません。また、中学生から始める意見文でもありません。
 小学4年生までの生活作文は、その後の説明文、意見文の土台にはなっていますが、質が全く違います。
 だから、小学5年生になってから急に作文を難しく感じたり、中学生になってから急に構成どおりに書けなくなってくる生徒がいるのです。
 これは、読書も同じです。
 易しい物語文の本から、自然科学や社会科学や人文科学の説明文の本に移行できるかどうかが読書力向上の境目になるのです。
 
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水浴びをしにきたジョウビタキ
●動画:https://youtu.be/zR1GEn69gkQ
 コープで買い物をしたときに、プリペイドカードを出そうとして、「あ、これ……」と、言葉が出てこなかった。
 日常会話で、「このあいださあ、プリペイドがさあ……」というような会話はまずない。
 プリペイドという言葉は、まだ日本語ではないからだ。
 ナウいことをやろうとして、やたらに外来語を使う人が、団塊の次の世代の人たちに多い気がする。
 だから、日本中で、わけのわからない外来語が増えている。
 インクルーシブとか、インフラストラクチャとか……。
 そういう人たちには、「おまえの頭の方が、インクルーシブだろ」と言っておきたい。(よくわからん)
 しかし、昔のように、ベースボールを野球、サッカーを蹴球と言い換えるような変革は、もうできない。
 昔と違って、あまりに外来語が普通に広がりすぎたからだ。
 だから、当面の解決策は、和製英語になる。
 ワードプロセッサーなら、ワープロ。
 スマートフォンなら、スマホ。
 ノートパーソナルコンピュータなら、ノーパソ。
 英語の世界では、簡略化したいときに、頭文字を使う。
 ラージ・ランゲージ・モデルズだったら、LLMとか。
 しかし、日本語なら、ララモと略せる。(まだ誰も言っていないが。)
 同じように、プリペイドカードなら、プリカ。
 インクルーシブなら、インクル。
 インフラストラクチャなら、インスト。(エンストみたいだなあ)
 外来語をやめて、和製英語を作ることが、今後の日本語を国際化させる道だ。
 日本語に、カタカナがあってよかった。
 
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AI翻訳の時代には、和製英語が生きてくる。
このことに気づいている人はまだいない。
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メジロ
●動画:https://youtu.be/1-lejLltNQc
 言葉の森に、小学校低学年から来る子供たちは、みんな優秀です。
 クラスでも、1番か2番という子も多いです。
 しかし、その子たちが、受験勉強に入ると、だんだん頭が悪くなっていくのです。
 成績は良くなっていくのですが、それに反比例して頭が悪くなっていくのです。
 それがわかるのは、話をするときの中身が、次第に表面的になっていくからです。
 要するに、考えない、知識中心の話が多くなっていくのです。
 その路線で、大学入試までは、やっていくことができるでしょう。
 大学入試は、答えのある勉強なので、その頭の使い方で十分なのです。
 しかし、大学入試の先は、もう答えのある勉強はありません。
 就職試験によっては、答えのある勉強で、成績だけで合否が決まる科挙のようなものもあるので、過去問対策で対応できますが、その先はもうありません。
 過去問対策ができない現実の世界で大事なのは、考える力と行動する勇気です。
 では、考える力はどこで育つかというと、それはやはり読書です。
 中学生高校生以降は、特に難読です。
 「難読」とは、難しい本の読書という意味の造語です。
 先日、算数の成績も、読書力によるという記事を見ました。
====
【算数】なぜ「読書をする子」は「算数に強い」のか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/4863d1cfdb8568e4ab2df9322e13de6dca9068c9
====
 この記事に納得する人は、読書をしてきた人です。
 読書力(特に難読力)があると、考える力ができるので、算数数学の解法のややこしい説明も理解することができます。
 読書力がないと、解法の難しい説明を理解しようとしなくなります。
 この理解力が、算数数学の学力の差になります。
 言葉の森の読書記録のページにも、説明文の本が多くなってきました。
 特に、小学校高学年の生徒は、かなり難しい本を読んでいる子もいます。
 もちろん、読書は楽しく読むことが大事なので、無理に難しい本を読み続ける必要はありません。
 難しい本を読もうとして、読書量自体が少なくなってしまえば、その方がマイナスだからです。
 試みに、小6の読書記録を見てみると、次のようなリストになっています。
【例】小6の読書記録(11/14現在1109件)
https://www.mori7.com/teraon/ds.php?gakunenn=%E5%B0%8F6
※読書記録は、学年のところをクリックすると、その学年の記録だけが表示されます。タイトルの「読書記録」という文字をクリックすると全学年の表示に戻ります。
 ただし、読書が大事だとは言っても、中学生の定期テスト対策などで言うと、読書力だけでは、いい成績は取れません。
 それは、今の学校のテストは、生徒に差をつけるために行われているので、テストのための勉強をしなければ対応できないからです。
 このテスト対策の勉強で役に立つのは、暗唱力です。
 小学校低中学年までに暗唱力をつけておけば、中学生になってからの知識の勉強も、楽にできるようになります。
【例】暗唱検定のページ
https://www.mori7.com/askt/ 
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低学年のよくできる子は、特に勉強しすぎないことが大事です。
できる子だと、つい親が勉強をさせすぎてしまうことがあるからです。
勉強よりも、読書と遊びが大事と考えておくといいと思います。
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最近庭に植えたガーデンシクラメン
●動画:https://youtu.be/F0kW3Kzd9s0
 ベネッセがMBOで、株式公開を廃止。
 世間の目先の評価から距離を置くことは大事だ。
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ベネッセ創業家が自社買収、上場廃止へ 「進研ゼミ」会員減止まらず、立て直し急務
https://www.sankei.com/article/20231110-IOSJR2AANFMXRFJMNYFZQ2IVLM/
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 すでに、紙ベースの通信教育には限界がある。
 しかし、受験のニーズでSAPIXなどのリアルな教室に人が集まるのは一時的だ。
 AI技術の時代には、受験教育は不要になる。
 やがて、IT技術によって受験自体が不要になる。
 更に言えば、競争自体が不要になる。
 誰もが創造で生きる時代になるからだ。
 ついでに、戦争も不要になる。
 どの国も創造で生きる時代になるからだ。
 いまだに、漢字の書き取りを覚えさせる教育、間違えやすい計算問題を出す教育、生涯使わない知識を覚えさせる教育などが残っている。
 漢字は読めればよい、計算は理屈がわかっていればよい、知識は探せればよい。
 教育に携わる人は、真面目に勉強してきた人が多い。
 学校の先生、塾の先生、高学歴のお父さんお母さんたちは、「でも、一応は……」と言うだろう。
 しかし、時代は先に進んでいる。
 江戸時代の末期に、「でも、一応は、剣術と馬術と四書五経はやっておいた方が……」と言っていたのと共通している。
 新しい時代は見えないから、古い時代の確かなものに、一応は頼ろうとする。
 大事なことは、先を見ようとすることだ。
 しかし、新しい時代の方向は、STEM(STEMA)ではない。
 GAFA(GAFAM)の好きな人たちが言っているSTEM(STEMA)ではなく、もっと文化的なものだ。
 今、日本でも起業という概念が広がってきたが、若い人たちの起業の方向の多くがAI技術、特にLLMの技術だというところに視野の狭さがある。
 時代の方向は、個性、思考力、創造力、共感力であり、具体的には、読書、作文、発表、対話、学力の教育だ。
 
学力の土台として、日本語力と数学力がある。
 英語力はもうない。AIにまかせればいいからだ。
 理科も社会もない。読書ができればいいからだ。
 
精選された学力の土台の上に、創造と共感の文化を作ることが、今後の教育の方向である。 
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 ひとことで言えば、答えのある教育の時代は、もう終わったということだ。
 しかし、答えのない教育をわかっている人は、まだほとんどいない。
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熱心に餌を食べる2羽のスズメ
 人間の幸福とは、
朝、目がさめたら、顔の前で犬が寝息を立てて寝ているとき。(一緒に寝ているので)
 庭の花の周りに、シジミチョウや名前の知らない小さな虫が所在なく飛び回っているとき。
 池のメダカたちに餌をやると、みんなが次々と水面に出てくるとき。
 鳥の餌台に、ヤマバトやスズメたちが来て、餌を食べているとき。
と考えると、自分の幸福感は、自然と結びついていることがよくわかる。
 ところで、さっき、餌を食べていたスズメたちに、窓を開けて、「おうい、元気か」と声をかけたら、慌てて逃げていった(笑)。
 まだ慣れていないからなあ。
 そのうち、近くに寄っても逃げないようになる。
 人間は、自然の中で暮らしている。
 好きな景色は、青い空。
 モネとか、マチスとか、クレーとかの絵も好きだけど、青い空がいちばんいい。
 
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メダカのいる池
●動画:https://youtu.be/WHqUFQvN3rA
 道を歩いていて、工事現場などを通りすぎるとき、そこで使われている機械や設備を見て、「よく、ここまで工夫して作ったなあ」と感心することがあります。
 これが、かつての日本の国際競争力の源泉でした。
 今も、日本の自動車産業などでは、それが続いています。
 しかし、それらの機械工業のあとのサービス産業の分野では、おもてなしなどの人間的な工夫はなされていますが、システムとしての工夫はまだ不十分なようです。
 例外なのは、受験教育産業の分野です。
 ここは、目的がはっきりしているので、機械工業のような発想で取り組むことができます。
 そこでは、工夫した教材だけでなく、偏差値や順位や合格可能性などが、子供たちの勉強の動機づけに使われています。
 もちろん、それは、それでいいのです。
 しかし、これからのサービス産業の新しい分野は、受験教育ではなく、もっと広義の文化教育の分野になります。
 この文化教育の分野では、システム上の工夫は遅れています。
 文化教育とは、受験という目標に必ずしも結びつかない分野です。
 この文化教育の分野で、人間力だけに頼らない新しい仕組みを作ることが、これから日本が発展する道です。
 やがて、日本の輸出の中心は、機械産業から文化産業に移っていくでしょう。
 そのときに、他国が簡単には模倣できないようなハイレベルの仕組みを作っていくことが大事になります。
 言葉の森の行っている教育は、主に文化教育の分野です。
 作文、創造発表、プログラミングなどは、点数や順位や偏差値ではなく、創造と発表の喜びに基づいたものです。
 また、国語読解、算数数学、英語も、できるだけ創造や発表の面を取り入れていきたいと思っています。
 例えば、授業の前のみんなの読書紹介や、授業のあとの一人一言の時間などは、勉強の能率を考えれば、無駄なように見えるかもしれません。
 しかし、この読書紹介や一人一言の時間の中で、みんなが創造的に発表する機会を持つことができ、それがその子の成長につながっていくのです。
 言葉の森の教育の目的は、思考力、創造力、共感力を育てることです。
 引き続き、この方向で、勉強の方法を工夫していきたいと思います。
 
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 日本のこれからの国際競争力は、文化教育産業の分野で伸ばす必要があります。
 しかし、今はまだ「おもてなし」と同じように、人間の力に頼った競争力にとどまっています。
 それを、日本の機械工業製品と同じレベルにまで引き上げることが課題です。
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