アガパンサス
たまたまですが、私の担当しているクラスの生徒が、ちゃんと欠席連絡を入れてくれた人もいますが、欠席連絡もせずに休んだ子がいました。
欠席だけでなく、遅刻も同様です。
たまに、いつも1、2分遅れて入る子が、クラスによってはいるようです。
こういう子は、社会人になっても遅刻します。
日本では、遅刻や無断欠席は、信用を失ういちばんの原因です。
遅刻しそうなときや欠席しそうなときは、どういう方法でもいいので連絡を入れることが当然の責任です。
ホンダの創業者のひとりである藤沢武夫は、何かの会合で乗り物が遅れ、遅刻しそうになったときに、会場まで走って行ったそうです。
自分が副社長で、会場にいるのは、みんな自分の部下であるにもかかわらずです。
これが、普通の行動です。
こういうことは、親がやることではありません。
小学校高学年や中学生であれば、自分でパソコンの操作ができるはずですから、本人が、遅刻や欠席の連絡をしなければなりません。
それを子供に教えていないのは親の責任です。
こういう遅刻や欠席の生活を続けていると、子供は、厳しい先生にはちゃんと連絡して、厳しくない先生には連絡しなくてもいいという裏表のある人間になります。
どんな人に対しても、自分なりの基準で行動することが大切です。
私の個人的な話ですが、昔、言葉の森がビルの3階にあったとき、エレベーターがないので階段で大量の紙を運んでもらうことがありました。
今は1階なので、そういうことはなくなりましたが。
私は、配達の人が、重い荷物を3階まで何箱も運ぶのが大変だと思ったので、いつも一緒に荷物を運ぶのを手伝いました。
「仕事だから、社員が運ぶのは当然だろ」というのは、同じ人間の発想ではありません。
もし、自分の子供がそういう仕事をしていれば、誰でも必ず手伝うはずです。
遅刻や欠席の連絡にしても、ある人には連絡するが、ある人には連絡しないということではだめです。
どんなときでも、自分の基準をもって生きていくことが大事です。
遅刻や無断欠席をしたことがある人は、この文章を読んで猛省してください。
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山椒の実
面白い記事がありました。
基本は合っていますが、ちょっと違うと思ったことがありました。
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「語彙力がある子」たちの習慣…国語講師が見つけた「例外なき共通点」とは?
https://news.yahoo.co.jp/articles/d11b4d1a5874e4d2b36dd31851e944e1ae9e9a95
一方で、「語彙が乏しい子」に共通する点にも少し触れたいと思いますが、これは「家庭が言葉に触れられる環境になっていない」ことがあげられると思います。
当然ですが、親の語彙力は子どもに影響します。いつも同じ言葉で話しかけていては、語彙は伸びていきません。お子さんには、ぜひいろんな言葉で話しかけてみてください。
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この話は、本当です。
親が子供にいろいろな話しかけをすることが大事です。
しかも、その話しかけは、単なるお喋りでも、単なる知識の伝達でもなく、知的な話しかけであることが必要です。
昔、横断歩道で信号待ちをしている親子の、お母さんが子供に、
「赤が止まれで青が進めよ」
と言っているのを聞きました。
そのとき、そういうことを言うなら、
「赤の止まれが青になるときはすぐ青なのに、青の進めが赤になるときは途中に黄色が入るのはどうしてかなあ」
などと言えば面白いのになあと思ったことがありました。
別に、それは答えを要求するための話しかけではありません。
正解を求めるような話しかけではなく、親子の対話を楽しむ話しかけなのです。
同じことを感じたのは、ドクター・中松さんの「
お母様」を読んだときです。 中松さんの母親が、折に触れて、知的な対話を楽しんでいたのです。
「『語彙力がある子』たちの習慣」の記事の最初の方に、次のような話があります。
「(毎年一番勉強できる子に勉強の仕方を聞いて)その結果わかったことは、ひとりの例外もなく全員、語彙や言葉に関する「学習まんが」で学んでいたということです。」
これだけ読むと、では、子供に「学習まんが」や「子供しんぶん」や「図鑑」や「辞典」をたくさん与えておけばいいと思うかもしれませんが、そうではありません。
そういうものに関心を持つ土台として、最初に親子の知的な対話があるのです。
そして、親子の知的な対話があれば、「学習まんが」や「子供しんぶん」や「図鑑」や「辞典」は、特になくても何も問題ありません。
「学習まんが」や「子ども新聞」は、結果であって原因ではありません。
では、親子の知的な対話をどうしたら進められるのかというと、それは作文です。
これまで、勉強のよくできる子は、お父さんやお母さんと、作文の課題を通していろいろな話をしていました。
例えば、「がんばったこと」という題名では、親が子供時代にがんばったことを話して聞かせてあげます。
「友情について」という題名でも、親が子供に、子供時代に友情を感じた経験を話してあげます。
「自然の多様性」という題名でも、親がこれまで経験した多様性の考えを子供に話してあげます。
こういう話が、毎週できるのが作文です。
もちろん、その話が、作文に出てこなくてもいいのです。
親子で話した言葉は、そのまま子供の語彙力になっていきます。
そして、子供は単に語彙力を伸ばすだけでなく、お父さんやお母さんの生きた人生も学んでいくのです。
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田んぼ
読書と国語について、次のような記事がありました。
タイトルが中身と合っていませんが(笑)。
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「読書習慣のある子」が“国語が得意な子”ではない…国語講師が語る「納得の理由」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e30c2b4ed98fb84d63d61176afb6c00eb10e87b7
とはいえ、読書習慣自体が悪いものかと言えばそんなことは全然ありません。本好きという特性は国語を得意教科にしてくれる力があります。
もし、お子さんに読書習慣があるならば、さきほどお伝えしたように、まずは「客観的に読むこと」を教えてあげましょう。
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取材した記者が、自分の子供が本を読まないけれど、国語力を上げるにはどうしたらいいかという問題意識で記事を書いたのだと思います。
国語力は、読む力と解く力の総合力です。
読む力があっても、解く力のない子は、点数が上がりません。
しかし、これはすぐに改善できます。
読む力さえあれば、解く力は短期間で身につくのです。
しかし、逆の場合で、読む力がない子が解く力をつけるのは、ある程度までしかできません。
易しい文章は、解く力だけで解けますが、難しい文章になると、解く力では解けないのです。
「客観的に読むこと」と言っても、読む力のないうちは、客観的にさえ読めないからです。
そして、もっと大きな問題は、何のために国語の勉強をしているのかということです。
国語の成績を上げるための国語の勉強などは、子供が将来社会に出て仕事をするときに、何の役にも立ちません。
役に立つのは、読む力です。
しかし、その「読む力」とは、小説を読む力ではありません。
しっかりした説明文や意見文を読む力です。
目の前の国語の成績にとらわれることなく、子供の本当の成長のために読む力をつけていってください。
ただし、小学校低中学年で、難しい説明文や意見文を無理に読ませようとすると、読書の量自体が減ってしまいます。
小学生の読書量は、1週間に2冊が目安です。
中学生は、1週間に1冊です。
基本は、楽しい読書をすることですから、物語文の読書でもちろんいいのです。
しかし、子供が小学校高学年、中学生、高校生になるにつれて、次第に説明文や意見文のある程度難しい本が読めるようにしていってください。
これは、国語の成績を上げることよりもずっと大事なことなのです。
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国語力をテクニックで身につけようという考えそのものがあさはかです。
テクニックは、短期間で身につきますが、そういうテクニックは社会に出てから何の役にも立ちません。
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