△小さな花に、小さなシジミチョウ
 「ほかの勉強はまあできるのですが、国語だけが苦手で……」という相談を時どき受けます。
 おどかすようですが、そういう場合は要注意です。国語のレベルまでしか、ほかの勉強も伸びていかないことが多いからです。
 以前、小さいときから英語をやっているので、今では英語の本の方をよく読んでいるという小学校高学年の子の話を聞いたことがあります。
 易しい本を読むレベルで言えば、日本語の本以外に英語の本も読めるというのはいいことです。しかし、難しい本を読むときは、日本人は母語である日本語でなければ深く読むことはできません。
 だから、学年が上がり勉強内容が難しくなるにつれて、英語の本を読めるかどうかよりも、何語であってもよいので難しい本を読めるかどうかの方が重要になってくるのです。
 国語力をつける基本となる場所は家庭です。
 家庭で読書の習慣をつけ、更にその学年相当よりも少し難しい文章を音読する習慣をつけていくのです。
 言葉の森が今行っているのは、寺子屋オンエアで問題集読書の習慣をつけることです。更に、毎日の音読もskypeのビデオメッセージで先生に送るようにすすめています。小1~3の生徒の場合は、読書実験クラブというオンエア講座を開いています。
 しかし、これらに参加しなくても、家庭で読書と音読の習慣を毎日つけられればそれで十分です。
 小学2、3年生までは、子供も親の言うことをよく聞きますから、この時期までに毎日の読書と音読の習慣をつけていくことが大事です。
 そして、本当に力がつくのは小5以降の思考力が育つ時期ですから、小学校高学年からは特に力を入れて問題集読書を続けていく必要があります。
 この国語力が、他の教科すべての土台となっていくのです。
 国語力が既に十分ついている人が、これから力を入れていく分野は作文力です。
 それは、これからの学力が記述力として評価されるようになってくるからです。
 知識をたくさん知っているだけなら、コンピュータでもできる時代です。
 力仕事が機械に取って代わられたように、単純な知的作業は既にコンピュータに取って代わられています。そして、その範囲はこれからますます拡大していきます。
 人間ができるのは、知識を覚えることではなく、知識を組み合わせて新しいものを作ることです。これが、人間の本来の得意分野です。
 なぜ人間の得意分野が新しいものを作ることなのかというと、人間は未来に対して夢や希望を持つことができるからです。夢や希望があるから、自然に新しいものを作りたくなるのです。
 その新しいものを作ることを準備する力が作文力です。
 だから、小学校高学年からは、説明文や意見文の形で作文を書く力をつけていく必要があるのです。
 言葉の森の作文指導の特徴は、小1から高3まで一貫して勉強できることです。
 受験に小論文があることがわかってからあわてて勉強を始めるのではなく、小学校1年生から作文を書く習慣を生活の中に作っておくといいのです。
 
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 算数、英語、理科、社会と同じような教科の学力のひとつとして、国語の学力があるのではありません。
 国語は、学力そのものなのです。
 漢字や文法やことわざの知識や古文や漢文と同じような国語の分野のひとつとして、作文があるのではありません。
 高学年以降になると、作文は学力の集大成なのです。
 国語の勉強の基本は簡単です。要するに、読むことだけです。
 しかし、考えながら読むことが大事なので、学年に応じて考える文章を読む必要があるのです。
 というのは、考えなくても読める文章もあるということです。
 小学1年生の子にとっては、漫画も考える文章です。
 しかし、小学校高学年の子にとっては、絵で助けてもらう漫画は考える文章とは言えません。
(でも、漫画が悪いというのではありません。読書好きの子のほとんどは、漫画も好きだからです。)
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 人間の才能とは、その人が時間をかけたものです。
 生まれつきの差異などよりも、その後の時間のかけ方によるものの方がずっと大きいのです。
 今は、才能というとと勉強的なことで考えられがちですが、世の中に新しいものを生み出す力はすべて才能です。
 だから、その子が時間をかけて飽きないものを見つけてそれを育ててあげることが大事なのです。
 さかなクンの半生記を書いた「一魚一会(いちぎょいちえ)」を読んで、改めてそう思いました。
 
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さかなクンの伝記を読むと、泥団子に熱中したり、ゴミ収集車に熱中したりした子供時代に、いつもそれを優しく見守っていたお母さんの存在に気がつきます。
 わざわざ車で遠出して、ゴミ収集車の車庫まで連れていってあげたのですから本格的です。
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 この図(やじろべえの図)は、最近の都立桜修館中の入試問題です。
 こういう作文課題は、書き方の方向が決められていないので、書きやすいとも書きにくいとも言えます。誰でも、何とか書こうと思えば書けるが、誰もがどう書いていいかわからないまま書き出すという課題なのです。
 図ではなく文章で書かれた課題も、多くは書く方向性を決めにくい多様な考え方のできるものです。
 作文の課題が、その他の知識的な課題に比べるとどれぐらい得点できるか予測できないのは、こういう捉えにくさがあるからです。
 ところが、言葉の森の作文指導は、こういう課題に対しても、そのほかの文章の課題に対しても、同じように対策を立てられます。その方法が言葉の森独自の構成作文という書き方です。
 与えられたテーマについて、それをどういう方向で書くかということについて、構成、題材、表現、主題を先に考え、それから書き出すようにするのです。
 この図の場合は、ヤジロベエですから、ヤジロベエが表している抽象的な主題をまず考えます。
 与えられた課題に、あらかじめはっきりした意見が求められている場合は、その意見が主題になります。しかし、与えられた課題が象徴的なものである場合、意見はどのようにも考えられます。そこで、その象徴的なテーマを人間の生き方や社会のあり方に結びつけてみるのです。
 場合によっては、範囲をもっと狭めて、文章の書き方や、勉強の仕方などに結びつけることもできます。つまり、方向性のわからない課題を、自分なりの方向性を持った主題に転換していくというのが最初の作業になります。
 このヤジロベエの場合は、バランスという抽象的なテーマが考えられますから、主題を「バランスのとれた生き方」などと考えてもいいでしょう。
 主題が決まったら、次は構成を考えます。
 言葉の森の作文構成法にはいくつかの種類があります。どの構成が正解かということはありませんから、書きやすい構成で書けばいいのですが、大事なことはまず全体の構成を考えるということです。
 構成は、自分の実力に応じて書きやすいものを選びます。この場合は、例えば、複数の意見+総合化というかたちで考えてみます。
 第一の段落は、この図が表していることを自分なりにどうとらえたか説明し自分なりの意見を書きます。
 第二の段落は、バランスのとれた生き方のよい面を考えるとします。
 第三の段落は、バランスのとれた生き方の今度はマイナス面を考えてみます。
 第四の段落は、二つの意見を総合化して、折衷案にはならない形でより高い次元でまとめるようにします。この場合だったら、大事なことは、バランスがとれているかどうかという外見的なことではなく、何を目標としているかということで、その目標との関連でバランスが大事なこともバランスを崩すことが大事なこともあるというような考え方です。
 例えば、バランスとは一般によいものと考えられていますが、走り出すときはバランスを崩さなければなりません。バランスを崩すことは行動力があるということにもつながるのです。
 主題と構成の枠組みが決まれば、次は、その中に盛り込む題材を考えます。題材とは、作文の中身を作る材料です。
 材料には、鮮度のよいものが必要です。鮮度とは、個性、挑戦、共感、感動などのある体験談です。
 鮮度の悪い材料とは、ただ人から聞いただけの話、自分が積極的に行動しているわけではない話、誰でもよくある平凡な話、後ろむきの話などです。
 後ろ向きの話とは、例えば、読書がテーマになっている課題なのに、体験談として自分があまり本を読んでいないのでよく母に本を読めと言われるなどという体験を書くことです。
 もちろん材料にはウソを書いていいのではありません。それは作文の練習というよりも人間として当然のことだからです。
 この材料集めは、その場ですぐに思いつくことはなかなかできません。そこで普段からの練習が必要になります。
 作文の練習をするときに、事前に親子で対話をするのが役立つのはそのためです。人生経験の長い親の話を聞くことによって、子供は自分の中にも似た経験を見つけ出しやすくなるのです。
 材料の中には、体験実例以外に社会実例もあります。社会実例は、データの裏付けがあればかなり強力な材料になります。しかし、小学生ではそこまでの材料を求めることは無理があるので、体験実例がしっかり書ければそれで十分です。
 主題も、構成も、題材も決まれば、次は表現です。
 小学校低中学年のうちの生活作文では、表現の要は「たとえ」です。的確な比喩があると、その作文は光ります。しかし、高学年以上の意見文や説明文では、たとえよりも、主題に関連した光る表現が必要になります。
 この光る表現も、その場で考えつくことはなかなかできません。普段の練習の中で、いろいろなテーマについて、自分が思いついた光る表現をためておくのです。
 入試の本番では、自分のそのストックの中から使えそうな表現をあてはめてくるようにします。光る表現がひとつでも入れば十分です。二つ以上入ればほぼ完全に合格です。
 以上の主題、構成、題材、表現を、作文課題が出された最初の5分から10分で考えて、作文用紙の余白にメモし、そのメモをもとに一気に書き上げます。
 最初に全体像を考えているので、途中でどう書くか迷うようなことはありません。また、途中で消しゴムを使って書き直すようなこともありません。消しゴムはもし使うとしても、うっかり書き間違えた文字を消すだけです。
 時間配分は、全体の時間の半分ぐらいで作文の4分の3ぐらいまで書き進め、最後の4分の1はある程度じっくり考えて書きます。
 何をじっくり考えるかというと、書き出しと結びの対応を考えるのです。作文の中身が個性的に広がっているのを、書き出しと結びの対応でひとつの輪のようにまとめていきます。
 こういう工程が身につけば、作文試験という予測のつかないものでも、自分の実力を常に一定の力で出すことができるようになるのです。
 
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 作文を感覚的に教えられると、褒められても注意されても、子供は何をどうしたらいいか理解できずに途方に暮れます。
 理詰めに教えることで、子供たちは安心して書く練習ができるのです。
(「受験作文小論文の岸」というFacebookグループを公開しています。)
 通常の作文指導は、内容的なことから教えはじめると思います。すると、それは教える側の主観になるので、同じように考えられる子と、同じようには考えられない子が出てきます。
 言葉の森の作文指導は、構成的なことを説明するので、中身は子供たちが自由に考えることができます。
 そして、枠組みがあるから、かえって自由に考えやすくなるのです。
 ちょうど、五七五という枠組みがあるから俳句の中身を考えやすくなるようなものだと思います。
 図解説明で書くと、

https://www.mori7.net/izumi/gazou/2016/9171257340.jpg" style="max-width:100%;" border="1">
やみくもに書き出してしまうと、最後字数が足りなかったり、書き直したくなったり大変です。やはり最初にしっかり考えてから一気に書き出すのがいいですね。
初めに構成を考えて書くことの大切さ。受験コースの子たちにもしっかり伝えていかなければ。
桜修館の問題はとらえどころのないテーマが多いですね。
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 思考力や創造性の評価で最も役立つのは小論文だと思います。
 しかし、小論文は採点に手間がかかることと、客観性が必ずしも保証されないことから、本格的に利用しているところはありません。
 小論文の本格的な利用とは、複数のテーマで1200字以上の小論文を何本か書くような形の利用です。
 字数が短い小論文であったり、1つのテーマで1本だけ書くような形では、誤差の方が大きくなります。特に、傾向が予測されるような小論文の場合は、準備の有無がその小論文の出来を左右するので、小論文試験と言っても本当の実力がどれぐらい正しく評価されるかは疑問です。
 この小論文試験の評価に活用できるのが、深層学習です。
 まず、同じテーマで複数の人が小論文を書いた場合、そのテーマに関連性の深い文章というものが評価されます。
 つまり、みんなが同じような形で論じている傾向に近いものほど、テーマに深く関連していると考えられるのです。
 しかし、みんなと同じ傾向だということは、それだけ平凡だということです。最も平凡で最もありきたりのものが高い評価を受けることになってしまいます。
 そこでもう一つの評価は、みんなと異なっている度合いを評価するということです。
 大きな論旨は、みんなが論じているものと同じだが、その中身がユニークで幅が広いという小論文が、論理性と創造性を兼ね備えた文章だと考えられるからです。
 これは、人間が文章を読むときの感覚と似ています。
 上手な文章というものは、書き出しと結びは一つの輪のように収斂していて、テーマと結びついていますが、その途中の展開がユニークで幅広く独創的なのです。
 ただし、以上のような評価を、自然に書かれた文章だけで評価するのは、深層学習には若干荷が重いと思います。
 そこで、小論文試験の場合は、書く文章にある方向性を持たせるようにするのです。
 こうすれば、人間が評価するのとかなり近い評価を機械採点でできるようになると思います。
 ここでよく誤解されるのは、機械が価値を評価しているのではないということです。
 価値を評価できるのは人間だけです。それは、生きた人間は、希望や願望や欲望といった未来に目指すものを持っているからです。
 機械がそのような価値観を持つようになるかもしれないという人がいますが、それは単に言葉の遊びです。生きているものは希望を持ち、生きていないものは希望というものがそもそもないから生きていないのです。
 機械による評価が容易にできるようになれば、学校教育の中で文章を書く機会をもっと増えます。
 知識を詰め込む勉強だけでなく、その知識を生かす勉強をすれば、勉強はもっと楽しくなってくると思います。
 参考までに、森リンという自動採点ソフトが評価した森リン大賞のリストです。(この森リンは、まだ深層学習を使っていません)
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php 
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知識は、inputするだけでなく、outputして初めて意味のあるものになるのですね。
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 勉強は、自分で考えたり、作ったり、発表したりするところが面白いのです。
 正解に到達するだけなら機械でもできます。
 機械ではできない自分らしい創造をするのが人間らしい勉強です。
 社会に出て活躍する人も、そういう自分なりの工夫ができる人で、その傾向はこれからますます強まってくると思います。
 下記は、思考国算講座の中で、みんなの作品を紹介している場面の一部です。
 こういう自分らしい発表が、これからもっと広がっていくといいと思います。
 コンクールなどでは、脚光を浴びるのはごく一部の入賞者だけです。
 しかし、家庭で親子だけでやっていたのでは、ちょっと張り合いがありません。
 だから、6、7人の少人数のグループで全員が発表できるような場があるといいと思っているのです。
https://www.youtube.com/watch?v=KqwScBzJprQ
 
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 昔の学校は60人学級ぐらいでしたが、それでもみんなそれが普通だと思って勉強していました。
 しかし、それはみんなの生活環境が同じようなものだったから成り立っていたのだと思います。
 今の社会では、日常的な勉強の場は6、7人がちょうどいいのではないかと思います。
 そして、必要に応じていろいろな人数で集団活動が組めるようにするといいのです。
 オンラインの勉強というと、個人でできるとか、マンツーマンでできるとかいうものが多いのですが、子供たちが喜ぶのは、少人数のグループでやるものです。
 人口密度の高いところでは、近所の子供たちが集まって家庭学習の延長でやっていくような勉強です。
 それをオンラインで高度な勉強としてやっていきたいと思っています。
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 勉強というと、何かいろいろなことを教えられて、それをしっかり覚えておき、聞かれたら正しく答えられるようになることが目標のように考えられがちですが、本来はそういうものではありません。
 既に答えのわかっていることを、その答え方を身につけるために学ぶことは、教育の準備であって、それが教育の目標なのではありません。
 目標は、それらのいろいろな知識の土台の上に、自分なりの創造、発明や発見や発表をすることで、それこそが人間がもともと持っている喜びに根ざした教育になります。
 勉強ができるようになることは、そういう喜びのための準備であって、本当の喜びはその先の創造にあるのです。
 2020年から小学生のプログラミング教育が必修になりますが、これも、子供たちが自分で創意工夫して自分で何かを作ることを早めの目標にする必要があります。
 プログラミングを覚えること自体が勉強のようになり、その知識を覚えたかどうかで○×をつけられるようになると、ここでもまたできない子をどうするかという不毛な問題が出てきます。
 子供たちの遊びで、その遊びができない子をできるようにするという問題はほとんどありません。できない子も参加できるように、遊びの方を柔軟に工夫できるからです。
 教育だけは、そういう柔軟性がなく、かたくなに正解というゴールの一本道に子供を追い込もうとしているように見えます。
 本当は、正解はたくさんあって、誰でもその正解に行けるように工夫していくことできるのです。
 遠い正解も、近い正解もあり、誰もが自分の興味と関心に応じて、自分なりの正解に行けるようにするのが教育の工夫するところなのです。
 
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 中学生たちの夏休み明けのテストの結果を聞いて、中学の教育が何かおかしいような気がしました。
 もしかしたら、先生たちは、生徒に点数の差をつけることを目的にしてテストをしているのではないかと思ったのです。
 勉強ができる子とできない子に分かれるのは、評価そのものが目的になっているからです。
 本当は、誰もが自分の興味と関心と適性に応じて自分なりにできるようになり、それを生活や遊びや創造に生かしていくものなのです。
 教育は、点数の差をつけることを目的にするのではなく、誰もができるようになることを目的にすべきだと思います。
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 公立中高一貫校の入試は、作文試験が定番になっていますが、高校入試でも作文試験を課すところが増えています。
 作文試験というものは、採点する側の負担が大きいので、どこの学校でも行われるようになるわけではありません。通常の学力試験で間に合うところは、学力試験だけでこれからもやっていくと思います。
 しかし、学力試験以上の学力を求めるところでは、これからも作文や小論文の試験が増えてくると思います。
 作文の評価というものは意外と難しく、論旨が合っていてなおかつ独創であるものを優れた作文と評価するという理屈は成り立ちますが、それを人間が読んで判断するのはなかなか大変です。
 だから、採点する側の気持ちとしては、誤字があったり、字数が短かったりするものは、内容を読んで評価する以前に、誤字や字数だけで低い評価を下してしまいたくなるのです。
 ところが、この誤字や字数や書くスピートというものは、意外と作文の実力と相関が高いのです。
 特に、字数についてはそういうことが言えます。
 もちろん、簡潔で密度の濃い文章を書く人もいます。長いだけで密度の薄い文章を書く人もいます。だから、字数だけで評価することはもちろんできませんが、一般に文章力のある人は、必要に応じて長く書くことができるのです。
 この字数を長く書く力は、すぐにはつきません。また、短い時間で早く書き上げることも、すぐにはできるようにはなりません。
 長く早く書くという意識的な努力をして、少しずつついてくるものです。
 また、誤字をなくすということも、予想以上に時間がかかります。
 800字の作文で1箇所でも誤字がある場合、その生徒はいつ書いても800字で新しい1箇所の誤字があるという確率があります。
 その誤字は、小学校中高学年で習う漢字を勘違いして覚えているということが多いので、他人から指摘されなければ気がつきません。
 たまたま昨日、思考国算講座で生徒の書いた文章を紹介したときに、そのよくある誤字がありました。内容の優れた文章ですから、よけいに誤字が目立ってしまうのです。
 ひとつは、「かたずける」です。これは、昔は一時この書き方が正しいとされたことがあります。ですから年配の人の中には、こちらの方が正しいと思っている人も多いのですが、現代の表記では「かたづける」が正解になっています。
 同じように、「読解」の読み方を、「どっかい」ではなく「どくかい」と読むように学校で教えられた時期もありました。だから、いまでも「どくかい」と読む人がいます。間違いではありませんが、今は普通は「どっかい」です。
 もうひとつの誤字は、「展開」などの「展」の字の下に左のはらいを書いていることでした。これも勘違いして覚えていると、人から指摘されるまで気が付きません。
 同じようによくあるのは、「友達」などの「達」の中を「幸」と書いてしまうことです。これも、正しい字と外見が似ているので、他の人から指摘されなければ気が付きません。
 こういう誤字が完璧になくなるのは、私の経験で約1年間かかります。というのは、私自身も誤字が多かったからです。
 それをどうやって直したかというと、自分の書いた文章で使った漢字を、易しい漢字も含めて逐一辞書で調べ直したのです。
 誤字がない作文を、必要に応じた長さで、指定された時間内に書き上げるというのは、それなりの努力が必要です。
 しかし、作文を書く練習というものは、ひとりではなかなかできません。
 その第一の理由は、作文を書く勉強というのは、ほかの勉強に比べて負担が大きいからです。
 第二の理由は、他人から評価されなければ自分で自分の作文は評価できないからです。
 作文の内容的な評価は、誤字や字数やスピードとは別のものです。しかし、相関が高いのも事実です。
 だから、作文の評価では、内容以前に誤字や字数で評価されてしまうこともあるのです。
 字が上手かどうかということも、読む人の第一印象には影響します。しかし、文章の内容と字の上手さは相関がないと多くの人が感じているので、よほど読みにくい字でなければマイナスになることはありません。
 それよりも、正しい表記で長く早く書くことが、内容以前の勉強で最も大事なことなのです。
 
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 誤字は、一般的な漢字の練習をしても直りません。
 自分の書く文章の中の漢字を、自分なりに勘違いして覚えているということが大半だからです。
 だから、ほとんどの誤字は本人が正しいと思って書いている誤字です。
 自分がそうだったから(笑)よくわかります。
 ある都立高校の過去の作文試験の問題です。
「生きるということは徐々に生まれることである。(サンテグジュペリ)」
「海のほかは何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっして優れた探険家ではないない。(ベーコン)」
「自然は曲線を創り、人間は直線を創る(湯川秀樹)」
 これで50分600字で書くのです。
 面白いと言えば面白いですが、途方に暮れると言えば途方に暮れると思います。
誤字は、内容が良ければよいほど、目立つ…本当ですね。
やはり作文力は、読書と継続が大切ですね。
かなり現実的な話題です。
中学入試から大学入試・就職試験まで作文を課すところが増えています。
もちろん論理的で内容のあるものを時間内に書くことが求められているのですが、現実には同じくらい大切なのが誤字脱字のない文章であること。
誤字脱字があると内容を見てもらえないという現実があるのですね。
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 小学1年生から3年生が対象の読書実験クラブでは、主に説明文の本の読み聞かせをしています。
 説明文ですから、それを実際の生活にあてはめて実験したり観察したりすることができます。
 物語文の世界も、想像をふくらませる楽しみがありますが、説明文は実際に確かめてみるというまた別の楽しさがあります。
 しかも、実際にやってみることですから、お父さんやお母さんとの対話も生まれます。
 また、その実験や観察の結果を発表し合い、みんなで共有することもできます。
 こういう実際の物や人との関わりが、子供たちにとって本当に役立つ学力につながっていくと思います。
 勉強という意識なく、遊びのような感覚で、実は深い勉強ができているというのが読書実験クラブのめざしているものです。
 今後、この講座を広げて、読み聞かせをしてくれる人も多数募集したいと思っています。
https://youtu.be/iF5mMrKGLBs
 
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 読み聞かせは、家庭でお父さんお母さんがよく行っていると思いますが、それをオンラインで共有して行うのが読書実験クラブです。
 読み聞かせの本は、物語文もありますが、どちらかといえば説明文が中心です。
 それは、説明文の本はそのあと実際にいろいろ確かめたり実験してみたりすることができるからです。
 勉強は、ひとりでやっていてもあまり面白くありません。
 しかし、何十人もいるクラスでやっていると、今度は個人的なコミュニケーションがとれなくなります。
 6、7人のグループでひとつの話題を共有しながらやっていくところが、能率と交流のバランスのよいところだと思います。
 読み聞かせのあとに、探してみよう、観察しよう、食べてみようがあると、親子の対話がふくらみますね。
おもしろいですね。ミジンコ浮草知りませんでした。
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