「インド式すごい勉強法」(ニャンタ・デシュパンデ著)という本を読んで、日本の教育にも生かせる面がいくつかあると思いました。
それを四点にわたって話していきたいと思います。
第一に、インドでは、家庭教育が重視されているということです。普通の家庭では、子供が学校から帰ってくると、午後8時ごろの遅い夕食までの時間を家庭での教育にあてているそうです。日本では、学校から帰ると、そのまま習い事に行くような形の時間の使い方が多く、習い事から帰ると夕食の時間になってしまいます。すると、宿題をやるような形の勉強になることが多くなり、家庭での独自の学習というのはなかなか時間をとることができません。今後は、日本の社会に合った家庭教育の仕組み、又は家庭教育の代わりになるような仕組みを考えていく必要があると思いました。
また、このインド式の勉強法で参考になるのは、夕食前に勉強するという時間の使い方です。言葉の森でも、長文暗唱の自習は、朝食前の時間にやることを勧めています。朝食前の時間が取れない場合は、平日であればやはり夕食前の時間が勉強の時間としては最適です。勉強は空腹状態でやる方が能率が上がるからです。
第二は、インドでは、家庭教育を担っているのが、父親や母親ばかりでなく祖父母であることが多いということです。日本では核家族化が進行したことしたことによって、親子だけで過ごす生活時間が多くなっています。そのために、家庭教育よりも習い事などに行く形が増えているのだと思います。今後、この核家族体制を見直すというのはすぐにはできることがないので、家庭だけでなく地域全体で祖父母のような役割を果たせる人が子供たちの家庭教育的な学習を担っていくことが将来考えられると思います。
第三は、インドの算数で有名な桁の大きい九九です。30×10までの暗唱と、30×30までの2乗の暗唱というものがインドでは普通に行われているそうです。しかし、これはそれほど驚くことではありません。日本では小学校2年生で九九を覚えるというカリキュラムになっています。世界中では九九自体を教えるカリキュラムがないところが多い中で、学校教育で九九の暗唱を行う体制をとっている日本は、その延長ですぐに30×10の暗唱や30×30の2乗の暗唱もできるからです。既にそういう教育を行っているところもあると思いますが、やり方は次のような感じです。
【30×10までの九九】
12×1=12(いにい・いに)
12×2=24(いにに・によ)
12×3=36(いにさ・さろ)
12×4=48(いによ・よは)
12×5=60(いにご・ろれ)
12×6=72(いにろ・なに)
12×7=84(いにな・はよ)
12×8=96(いには・くろ)
12×9=108(いにく・いれは)
12×10=120(いにいれ・いにれ)
13×1=13(いさい・いさ)
13×2=26(いさに・にろ)
13×3=39(いささ・さく)
13×4=52(いさよ・ごに)
13×5=65(いさご・ろご)
13×6=78(いさろ・なは)
13×7=91(いさな・くい)
13×8=104(いさは・いれよ)
13×9=117(いさく・いいな)
13×10=130(いさいれ・いされ)
(以下略)
【30×30までの2乗の九九)
11×11=121(いいいい・いにい)
12×12=144(いにいに・いよよ)
13×13=169(いさいさ・いろく)
14×14=196(いよいよ・いくろ)
15×15=225(いごいご・ににご)
16×16=256(いろいろ・にごろ)
17×17=289(いないな・にはく)
18×18=324(いはいは・さによ)
19×19=361(いくいく・さろい)
20×20=400(にれにれ・よれれ)
21×21=441(にいにい・よよい)
22×22=484(にににに・よはよ)
23×23=529(にさにさ・ごにく)
24×24=576(によによ・ごなろ)
25×25=625(にごにご・ろにご)
26×26=676(にろにろ・ろなろ)
27×27=729(になにな・なにく)
28×28=784(にはには・なはよ)
29×29=841(にくにく・はよい)
30×30=900(されされ・くれれ)
しかし、日本でこのような桁数の大きい九九が文化として定着しなかったのには、それなりの歴史的背景があったからだと思います。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育技術(5)
人は何のために生まれてきたのか。
円は、自分のことを知りたいと思い、直径に尋ねた。
しかし、直径の答えには、どこまで行っても割り切れなさが残った。
ある日、円はふと気づいた。
直径が先にあるのではなく、僕が先にいたんだと。
人生の目的が先にあるのではなく、人生が先にあったのだと。
円は、考えた。
だから大事なのは、無限にある直径の可能性の中でどういう直径を選ぶかということだ。
その直径を軸として回転をすれば、円はひとつの球になるだろう。
球の中で、円は無限に存在する。
人が学ぶのは、球になる可能性を求めて、直径を引く場所を探すためだ。
孔子は、十五にして直径に志し、三十にして球になるために立った。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。四行詩(13)
作文教育には、個人における教育としての面と、社会における文化としての面の両方の面があります。
個人の教育としての面は、知的創造性を育てるための準備という面です。
その方法として、言葉の森では四つの面からの勉強を考えています。
第一は吸収力をつけるための音読と暗唱の自習、第二は読解力をつけるための多読と復読の練習、第三は構成図を書くことによって思考力を育てる練習、第四は構成的な作文によって表現力をつける練習です。
この中でも、特に暗唱という自習が、読解力の元になる吸収力をつける、思考力をつける、表現力をつけるという三つの面から重要な練習だと考えています。
暗唱は、野球や剣道などで行われている素振りの練習に相当します。暗唱の学習は、社会の様々なところで行われています。例えば、九九を覚えるというのも、暗唱を利用した学習です。また、日本の社会では昔から論語の素読のような暗唱を学習に生かす文化がありました。英語や古文の練習でも、暗唱を生かした勉強がよく行われています。
暗唱による勉強は、だれでも多かれ少なかれ行ったことがあると思います。しかし、従来の暗唱の勉強には、いくつかの前提がありました。ひとつは一般に、一度に覚える量がそれほど多くないということです。もうひとつは、一度覚えたらそれで目標が達成されたことになるということです。さらにもうひとつは、暗唱は子供時代に行うものだと思われていることです。
作文教育に生かす暗唱は、従来の暗唱とは異なります。ひとつは、より長い文章を暗唱できる力をつけること、もひとつは、暗唱が完成したあとも継続してその暗唱を繰り返すこと、そしてもうひとつは、子供時代の学習としてだけではなく、成長してからも学習を続けることに意義があることです。
暗唱の土台の上に、読む力、考える力、書く力をつけるというのが、創造性を育てるための作文教育の中身になります。
社会における文化として作文という面では、教育の場よりも発表の場が重要になります。
2008年の総務省の調査によると、世界中のブログに使用されている言語の中で、日本語の使用率がかなり高いという結果が報告されています。この調査の結果が正しいとすると、日本人は文章を発表することが好きな民族なのだと思います。この発表の場を、プログ、SNS、又は様々なコンクールなどを利用して広めていくことが文化としての作文の広がりを作っていきます。
これからの社会では、新しいものを創造する力がますます必要とされるようになります。仕事においても、右のもの単に左に移すような仕事は、これからは人間ではなく機械が自動的にやってくれるようなものになるでしょう。
知識においても同様です。伝達するだけの知識ではない創造する知識がこれから求められるようになります。その創造する知識は、学校によって教え込まれるようなものとは性格が違います。社会に自由に発表する場があることによって初めて創造的な知識が広がっていきます。
その自由な発表の機会を育てていくというのが、作文教育の文化的な中身になります。
社会や文化においても、創造的であるところにその社会や文化の存在する意味があります。
日本の社会と日本の文化を守り発展させていく道は、日本が世界に対して知識の面でも仕事の面でも創造的であり続けることになると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
文章を書くことについて、与え手と受け手の多少で次のような歴史が描けます。
┃受け手
┃多┃少
━━━━╋━╋━
与え手多┃3┃4
━╋━╋━
少┃2┃1
1、昔は師が弟子に直接口頭で教えました。(与え手少、受け手少)
2、書物によってより広く教える方法が生まれました。(与え手少、受け手多)
3、インターネットの時代は、多く人が多くの情報を検索して学ぶことを選べるようになりました。(与え手多、受け手多)
4、将来は、構成図と作文によって書くことが学ぶことになり、相対的に書き手が読み手より多くなります。(与え手多、受け手少)
このそれぞれの段階を、文章を書く意義にあてはめることができます。文章を書く意義も、人生の意義と同じように、人間の幸福や向上や創造や貢献とつながっています。
さて、作文教育の重要な意義の一つとして、創造というものを取り上げてみます。
創造的な文章の反対は、伝達の文章です。自分の知っていることを、知らない人に伝えるという役割の文章が伝達の文章です。右のものを左に移すような伝達の文章にもその役割がありますが、それは個人の役割というよりも、主に社会におけるメディアの役割になります。
創造的な文章が個人の文章の主な役割だと言っても、文章における創造は、必ずしもその個人の中だけでの創造とは限りません。文章における創造は、社会全体の中での創造として考えられるべきものです。つまり、他の人の創造の材料を提供することも、創造の一つの要素になります。
創造的な材料を書くためには、真実を書くことが大切です。ベーコンは、「読むことは人間を豊かにし、書くことは人間を正確にし、話し合うことは人間を役に立つものにする」と述べました。ここで言われている書くことの正確さが文章の真実性で、その正確さが社会全体の創造の足がかりになるということです。
したがって、作文教育には、個人における教育としての面と、社会における文化としての面の両方の面があります。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を、音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)