facebookやgoogle+を作文の勉強に生かすという話の最終回です。
最初は作文の話から始まりましたが、それが教育全体の話になり、教育以外の生活の話にまで広がりました。そして、今回は自治の話です。いわば、日本の新しい国づくりの話と言ってもいいと思います。
なぜ、そういうところまで話を進めるかというと、今、日本を含め世界全体が政治的にも経済的にも危機の一歩手前にあるように思われるからです。
これは、たまたまやり方が悪かったからうまく行かなかったのではありません。欧米の文化から始まった近代の世界自体が行き詰まっていることの反映なのです。
この行き詰まりを打開することのできる文化を持っている国は日本です。日本は、欧米とは全く異なる文化圏で、江戸時代の300年間、豊かで平和で高度に発展した社会を作ってきました。江戸時代の日本の社会は、欧米よりもさまざまな面で優れた特徴を持っていました。
ただし、欧米の文化から離れていたために生じた弱点もありました。一つは、民主主義が不徹底だったこと、もう一つは、近代科学が未成熟だったことです。しかし、社会の底流では民主的な運営が行われていましたし、生活の中には科学的なものの考え方が広がっていましたから、いったん欧米の文化に遭遇すると、急速にそれらの政治制度や科学技術を自分たちの文化に移植することができたのです。
明治以降の日本の歴史は、欧米に追いつくための歴史でした。しかし、政治的にも経済的にも、欧米に追いついたころ、日本が直面したのは、欧米文化の限界でした。
今日、限界はさまざまなところで現れています。当面の第一の問題は、世界のほとんどの国で経済が行き詰まりを見せていることです。アメリカの経済には、もう自立して回復する力はないようです。今は、裏付けのないドルを印刷してお金を回していますが、借金を増やして時間かせぎをしているだけのように見えます。ヨーロッパも、ギリシアのあとに予想されるイタリアやスペインの破綻を救う余力はもはやないようです。日本もまた、毎年、展望もなく税収をはるかに上回る支出を続けています。
どこかの国が、「もうこれまでの借金は返せない」と言い出せば、そこから世界中のすべてのお金の動きが停止する可能性があります。
しかし、そこで破綻するのは、際限のない軍事費など無駄な支出を重ねてきた国家であって、個人としての国民ではありません。ほとんどの個人は、収入の範囲で支出をするという健全な生活を営んでいたのです。
だから、国の経済が破綻しても、個人が地域の中で協力する仕組みさえ作ることができれば、かえって国家が余計なことをしない分、ずっと暮らしやすい社会ができます。
そして、その社会は、暮らしやすいだけでなく、これまでなかったほど文化が豊かに花開く社会になるのです。
なぜでしょうか。これまでのグローバルな分業化された個人がばらばらに消費者であるような社会では、消費者のニーズは観念的に考えられた架空のものでした。自治的に運営される社会では、ニーズは、個人個人の真の要望に根差したものになるからです。
例えば、食品会社は、現在、最も安く仕入れることができる生産地から大量の原料を集め、輸送費をかけて運び、保存料で長持ちするようにし、着色料で見た目をよくし、広告宣伝費をかけて消費者に売り、売れ残ったものは廃棄します。(そうでないところももちろんありますが)
このとき、消費者のニーズは、安くて見た目がよくて長持ちするものをセンスのいいコマーシャルにつられて買うところにあると思われています。この架空のニーズに基づいて生じる、輸送費、着色料や保存料の費用、広告宣伝費、廃棄にかかる費用などすべてがGDPを押し上げています。
しかし、ここで豊かになったものは、お金に換算された売上や利益だけであって、見方を変えれば多くの人は逆に貧しくなっているのです。着色料や保存料の会社で働く人は、本当はそんなことのために働きたくはないはずです。広告宣伝会社で働く人も同様です。みんな、本当は相手が喜ぶことをして働きたいのに、分業化された社会の中では、往々にしてその反対のことをしなければお金が回ってこない仕組みになっているのです。
ところが、自治的な社会で、相手の本当のニーズがわかる中で仕事をするようになれば、だれもが相手が喜ぶようなことを自分の仕事の中心にするはずです。しかし、衣食住の直接的なニーズは、今の人類の生産力からすればすぐに埋められますから、多くの人は文化的に相手を喜ばす仕事に向かうでしょう。こうして、江戸時代がそうであったように、さまざまな文化が花開く豊かな社会になるのです。
世界の経済が破綻することは、これまでの無駄の多い社会の無駄の部分に乗っていた人にとっては大きな脅威になります。しかし、地道に働いていた人にとっては、地域で助け合う仕組みができれば、国の経済破綻は何の脅威でもありません。むしろ、新しい社会に移行するちょうどいいきっかけになるぐらいです。
しかし、そのためには、地域の自治の受け皿ができている必要があります。だから、日本の社会にとって今いちばん大事なことは、江戸時代のような地域自治の文化を作り出すことなのです。
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facebookやgoogle+を作文の勉強に生かすという話の続きです。
ソーシャルサービスは、家庭における予習と自習、地域における発表、有志による教材作成などに生かせるという話を書いてきました。
そして、作文の勉強でできることであれば、ほかの勉強ではもっと簡単にできます。なぜなら、英語、数学、理科、社会などの勉強の多くは、知識を整理したり解法を身につけたりすることが中心になる勉強で、読解や作文の勉強ほど教えることが難しくはないからです。
ここまで来ると、教育全体を自分たちの手で作り運営するという話になってきます。
そして、これが江戸時代の寺子屋教育で行われてきたことなのです。
江戸時代は、公教育としての学校制度はありませんでした。庶民は、自分の家業を子供に継ぐために、教育を必要としました。武士階級は、やはり武士階級としての仕事を子供に継ぐために教育を必要としました。
その教育の多くは、読み、書き、算盤、そして倫理や道徳としての四書五経の習得でした。江戸時代の識字率が高かったのは、農工商に従事する庶民でさえ、家業に従事するために文字を読み手紙を書く必要があったからです。
したがって、そこで行われた教育も決して一律のものではありませんでした。一般教養として共通のものはありましたが、それぞれの仕事に特有な知識を読み書きの学習の中で学んでいったのです。
同様のことが、これからの社会でも行われるようになります。保護者は、子供たちに将来本当に役に立つことを学んでほしいと思っています。試験のための一夜漬けの知識を身につけてくれればいいと考えている親はいません。
しかし、今の教育体制の中では、子供にとって本当に必要なことは後回しになっています。子供たちに学ぶ意欲を持たせる方法は、競争を強化することではなく、学ぶ意味がわかるような教育を行っていくことです。
そういう当然のことができなかったのは、これまでの教育が行政のサービス、又は民間のサービスとして行われてきたからです。それは、明治時代から導入された学校制度が、欧米に追いつくための国家目標として取り組まれてきたためです。
もちろん、高度に専門化されたサービスが必要な教育の分野はあります。しかし、小中学校の義務教育では、教育は外部に委託するサービスとしてではなく、自治的な活動として行っていく方がずっと能率よく充実したものになるのです。
同様のことは、教育以外の分野にもあてはまります。治安、環境、防災、介護、福祉など、現在行政のサービスとして行われているもののほとんどは、江戸時代には庶民の自治活動として行われていました。巨大な江戸という都市の治安を守ったのは、警察のような行政機関ではなかったのです。(つづく)
話が、教育から社会の問題へと発展してきました。次回は、いよいよ最終回。
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facebookやgoogle+を作文の勉強に生かす話の続きです。
前回までは、予習と自習と発表について書いてきました。
今回は、教材作成に生かすという話です。
感想文を書く際のもとになる文章を読ませる場合、親なら、子供にこういう文章をよんでもらいというというものもあると思います。
教材作成の専門家に任せるよりも、子供の成長を身近に見ている親の方が正しい判断ができるということも多いはずです。
そこで、親や先生やあるいは一般の人が、自分たちで子供向けの長文を作るというのが「オープン長文」という企画です。
教材作成を専門にしている人は、その教材がどのように使われたかを直接見ることはありません。しかし、親や先生であれば、子供がそれをどう消化したかを知ることができます。特に、感想文の課題の長文であれば、どのように理解して、どのような文章を書いたかということがわかります。それを、教材の改良にすぐに生かせるのが、自分たちで教材を作ることの利点です。
著名な人の書いた文章であれば、著作権の問題もあり、教材として気軽に使うことができませんが、自分たちで作った文章であれば、互いの了解のもとにすぐに改良をしていくことができます。
これは、国語の文章に限らず、他の教科にもあてはまります。
例えば、数学の問題です。今の学校や塾の勉強は、点数の差のつきやすい問題、つまりうっかり間違えやすい問題を中心に評価が行われがちです。みんなが百パーセントできるようになることを目的とした勉強ではなく、点数で差をつけることを目的とした勉強になっている面があります。
このことが、算数や数学を苦手と感じる子を増やしています。よくできる子に知的な刺激を与えるために難問を出すのはいいのですが、教える仕事だけを専門にしていると、難問を出して差をつけることがひとつの目標のようになってしまうことがあるのです。
しかし、親は違います。自分の子供が実力をつけることが目的ですから、教材の適不適が教材作成の専門家よりもはっきりとわかります。もし、親が教材作成に参加したり、注文をつけたりすることができるようになれば、子供たちの勉強の結果をすぐに次の教材作りに生かすことができます。
このようなことができるのが、やはりfacebookやgoogle+を利用したコミュニケーションの力です。例えば、
「この間の問題、どうだった」「うちには、ちょっと難しかった」「じゃあ、どこを改善しようか」「こっちはちょっと易しすぎたようだから、発展問題があるといいかなあ」「それも、作ろう」
と、このようなやりとりができるようになります。
このような形で、親が直接教材作成に意見を反映させられるようになれば、現在の中央集権型の時代後れになりがちな教育は、もっと子供たちの現実に結びついたものに変わっていくはずです。
全国の小中学校には、もうかなり以前から1クラス分の生徒が全員使えるだけのパソコンが整備されていますが、取り組みの遅れている学校がかなりあります。
また、本当は、中学校の技術家庭で、コンピュータ・プログラミングを教えることができれば、日本人のIT技術はもっと広がっているはずです。
こういうことも、子供の成長を身近に見ている親が教材作成に参加するようになれば、大きく改善されると思います。(つづく)
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facebookやgoogle+を作文の勉強に生かす話の続きです。
前回までは、予習と自習について書いてきました。
今回は、発表についてです。作文の勉強の結果を発表する際にも、facebookやgoogle+を活用することができます。
facebookやgoogle+で予習の話を交わしているうちに、同じ学年の子供の保護者の中に、互いに親しみがわいてきます。毎週、同じような課題を、同じように工夫しながら予習するので、お互いに相手の苦労もわかるようになるのです。
そこで、そういう共通の基盤を前提にして、子供たちの清書の発表会をします。
昔、江戸時代の寺子屋でも、年に何回か席書き(せきがき)という発表会のようなものがありました。通り道にゴザをしいて、普段練習している手習いの成果を発表し、それらを展示しておくのです。通行人は思い思いに子供たちの発表を見に来ます。子供にとって、普段の学習の成果をみんなの前で発表するというのは晴れがましいものです。このようにして、練習と発表のサイクルの中で、勉強の意欲を高めていったのです。
作文の場合も同じようにできますが、江戸時代の席書きが主に習字であったのに対して、作文の場合は600-1200字の文章です。清書をそのままfacebookやgoogle+にアップロードしたのでは、あまり面白くありません。
そこで、発表会は、文章だけでなく、その作文の内容に関連した音楽や画像や朗読なども入れるようにします。作文というよりも、文章を中心とした総合表現芸術というようなものです。その発表会の作品を見て、ほかの生徒や保護者が思い思いにコメントを入れることもできます。
発表会で大事なことは、子供たちの作品を比較しないということです。評価をするにしても、それぞれの個性を評価することが中心で、優劣をつけるような評価は限定的なものにとどめておく必要があります。
facebookやgoogle+を利用するので、ネットワークの上だけでも発表会を行うことができますが、本当は、発表はリアルな関係の中でした方が励みになります。
そのために、予習が学年別・課題別であったのに対して、発表はできるだけ地域別に行うようにします。予習は、全国の小学3年生の8月1週の課題などと時間的に限定したものでしたが、発表は、○○市の□□町周辺の生徒というようにしていきます。したがって、地域ごとにいろいろな年齢の子供が参加する形になります。
このように、子供の教育を要にして地域につながりができるというのが、子供たちの成長にもプラスになります。今は核家族化が進んでいるために、子供たちは、親子という限られた人間関係の中で過ごすことが多くなっています。また、学校や塾も、同学年の子を中心に組織されているので、ここでも人間関係は単調なものになりがちです。
子供は、地域の中で、近所のおじさんやおばさんに囲まれて、年下の子や年上の子との関わりの中でバランスよく成長していくものですが、現代の社会ではその機会はきわめてすくなくなっています。そこで、作文の勉強という学ぶ機会を利用して、地域の多様な人間関係の中で育つ環境を作っていくのです。
日本の教育は、現在多くの点で行き詰まっているように多くの人が感じています。
しかし、それは教育に限ったことではありません。教育も、政治も、経済も、文化も、あらゆる面で、日本が明治以降、取り入れたきた欧米の近代文明が制度疲労を起こしているのです。
日本の社会は、もう既に、近代西欧文明の長所も弱点もほとんど経験しました。あとは、これを日本が本来持っていた伝統の中で昇華していくことです。
その伝統の多くは、これまで遅れていた時代と見なされていた江戸時代の中にあります。単なる復古ではない、伝統と進歩の創造的な結合を作り出すことがこれからの課題です。
それは、比喩的に言えば、民主主義の実現した江戸時代、又は近代科学を取り入れた縄文時代というようなものになると思います。(つづく)
次回は、教材の作成についてです。
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facebookやgoogle+を作文の勉強の予習に生かす方法の続きです。
前回は、小学3、4年生が感想文を書くための自習として音読の説明をしました。
音読で読解力がつくというのは、何度も繰り返し音読することよって、文章の内容が自分のものとして把握されるようになるからです。
では、なぜ音読であって黙読でないかというと、黙読のような声に出さない勉強は反復することがきわめて難しくなるからです。
音読には脳を活性化する働きがあるという人もいますが、それはただ脳波の動きが大きくなっているというだけで、それだけでは音読に効果があるということはできません。
音読のいちばんの効果は、反復と継続ができるということです。だから、逆に言うと、読書のように新しい文章を次々と読むような場合、音読はあまりいい読み方とは言えません。それよりも黙読の方がずっと能率が上がります。音読は、繰り返し読むようなもののときに役立つのです。
さて、感想文のもとになる長文を子供が毎日音読し、それを授業の前にお父さんやお母さんに説明したとします。それから、家庭での対話が始まります。
親が、その長文の内容と似た話をしてあげると、子供の理解は更に深まります。そして、親の話してくれた似た話に触発されて、子供自身も似た話を思いつくようになります。
感想文を書く際に大事なことは、いかにもとの文章を自分にひきつけて読むかということですから、似た話を通して読む読み方は、感想文に最も生かせる読み方になります。
ところが、小学校3、4年生にとって感想文が難しいのは、まだ人生の経験が少ないために、文章を読んで内容は理解できたとしても、それを自分の身近な話に結びつけるだけのぴったりした似た話が子供の中にないからです。そのときに、身近にいる親が似た話を聞かせてあげると、子供の似た話の見つけ方が柔軟になります。
小さい子供は、理屈で説明してもなかなか理解できませんが、実例を示してあげるとすぐに同じような実例を思い出すことができます。
小学3、4年生では、感想文は上手に書けないのが普通です。しかし、このように書くための材料がそろえば、普通の作文と同じぐらいの字数はすぐに書けるようになります。
このお父さんやお母さんの似た話を聞かせてあげるときに使えるのが、やはりfacebookやgoogle+です。作文の準備の出来事をシェアしたように、感想文の場合は似た話をシェアできます。大人でも、真面目に考えすぎるために似た話がなかなか出てこない人がいます。そういう人も、ほかの人の似た話を聞けば、「そういうことなら、自分でもある」と思いつくのです。
さて、小学校低中学年までは、親子の対話は簡単にいつでもできましたが、子供が小学校高学年になると、だんだん対話の機会が少なくなってきます。
子供の関心は、家庭から学校へ、親から友達へと移っていきます。また、勉強も難しくなるので、親が気軽にアドバイスできないものも出てきます。
そして、特に父親は、子供との接点が、時間の面でも話の内容の面でも少なくなるので、たまに話をする余裕ができたときも、話題が出てこないことがあります。
すると、「どうだ。勉強むずかしいか」「まあまあね」「そうか」……というような展開で終わってしまうことも増えてくるのです。
本当は、こういう時期こそ、親子で知的な対話をすることが大事なのですが、親子に共通の話題がなく、勉強や成績の話だけになってくると、次第に子供も親と話すことを敬遠するようになってきます。
そのときに生きてくるのが、感想文のもとになる長文を読んでの話題です。そのためには、子供が小学校中学年のころから、親子で長文をもとにして話をする機会を作っておく必要があります。
小学校中学年までの間に、音読や長文の説明をする習慣を作っておけば、その延長で、小学校高学年になっても、中学生、高校生になっても同じような話題の共有ができます。中学生や高校生の感想文課題は、かなり難しいものですから、親としても話しがいがあるはずです。
たまに、保護者の方で、「私はそんなに教養がないので、子供と難しい話をすることができない」と最初からあきらめたことを言う人がいます(笑)。勉強は、子供だけがすればいいというのではありません。親であっても、やはり勉強して成長していくのです。そして、親には、子供には決して負けない人生の年輪があります。親が、自分の経験を通して話す意見が、子供にとっては最も心に残ります。そして、そのときにも、facebookやgoogle+を生かすことができるのです。(つづく)
※次回は、作文の発表についてです。
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