ある大手の進学塾の国語科の責任者という方が教えている「記述力アップ講座」というものを見ましたが、方法論らしいものは何もありませんでした。
ただ、何しろたくさん書くことに尽きるという説明でした。
これは、どこの学習塾でも同じだと思います。
このことを見てもわかるように、学習塾の記述力対策というのは、あってもないようなものです。
それは、なぜかというと、入試問題の記述問題の評価の基準自体が、あってもないようなものだからです。
前にも書きましたが、ある東京都の都立中高一貫校を受検する小学6年生の生徒が、電話で相談してきたことがありました。
それは、その子の書いた記述問題の解答が、その学校で出されている模範解答とかなり違うので、どうしたらよいかという質問でした。
そこで、その子の書いた解答と、その学校で出されている模範解答とを見てみると、その子の書いた解答の方が、ずっと内容的にも表現的にもレベルの高いものだったのです。
学校で出している模範解答ですから、その学校の国語の先生が、しかも責任ある立場の人が書いたのだと思います。
それが、小学6年生の国語力のある生徒の解答よりも、一段下のレベルだったのです。
このことは、つまり記述問題には、明確な解答の基準がないということです。
解答の基準がないから、対策の方法論も生まれてこないのです。
言葉の森で記述問題の指導をするようになったのは、ある年、東大を受ける生徒が、記述対策をしてほしいと言ってきたことがきっかけでした。
東大の国語の現代文には、選択問題はほとんどありません。すべて短い記述式の問題です。
これは、国語の問題に限らず、理科も社会も同様で、○×で答えられるような問題ではなくほとんどが記述中心の問題構成になっているのです。
したがって、東大の進学を目指す中高一貫校の国語の試験問題も、記述問題が中心です。
そこで、記述対策の方法論として、「対比して書く」ということを指導したのです。
これは、「
小学生のための読解・作文力がしっかり身につく本」(かんき出版)にも10編ほど例を載せています。
「対比して書く」とは、どういうことかというと、記述問題の答えを、「○○は、Aである」と書くだけでなく、文中に隠れているBという対比される概念と結びつけて、「○○は、BではなくAである」と書いていくことです。
この対比には、さまざまなパターンがあります。「BではなくAである」「「確かにBもわかるが、しかしAである」「BでありながらAである」「BだったものがAになる」「Bだと思っていたものがAだった」など。
記述問題で問われるような部分は、話が屈折しているところです。
物語文で言えば、「うれしかったが、普通の顔をしていた」とか、反対に、「悲しかったが、笑顔を見せた」というような場面です。
だから、対比して考えるという方法論で書くと、記述の文章の輪郭がはっきりして、表現の焦点が絞られてくるのです。
これは、説明文の問題の場合も同様です。
しかし、これは主に大学入試に関して言える話で、中学入試の場合は、別の要素が加わります。
中学入試の場合は、抽象的な語彙を使って書く力があるかどうかが大きな差になります。
それは、小学6年生では、抽象的な語彙を自由に使えるかどうかが国語力の最も大きい差になっているからです。
では、その抽象的な語彙力の対策はどうしたらよいかというと、抽象的な語彙や考え方が書かれている難しい本を読むことです。
小学校高学年で難しい本を楽しく読めるようになるためには、小学校低中学年でやさしい面白い本をたくさん読んで読む力をつけておく必要があります。
だから、国語力の本当の対策は、国語の問題集を解くことではなく、小さいころから読書に親しんでおくことなのです。
さて、記述問題が国語の試験で取り上げられるようになったのは、○×式の入試に対する反省からです。
2020年の入試改革でも、現代文の記述試験をどうするかということが話題になっていましたが、私はこの記述問題の採用はうまくいかないと思います。
それは、記述問題ということ自体が、中途半端な位置にあるものだからです。
○×式の選択問題の対極にあるのは、記述問題ではなく、作文小論文問題です。
○か×かで答えるよりも、数百字の文章で答える方がずっと考える力を使います。
数百字というのは、600字から1200字、つまり人が普通に1時間で書けるような量の文章です。
しかし、数百字の文章を書かせる問題を出せば、採点する側が対応できません。
また、作文試験を課している学校のほとんどは、その数百字の文章を評価する基準を持っていません。
それは、記述問題の評価の基準がないのと同じです。
○×式の問題では考える力が育たない、しかし600字から1200字の作文試験では評価しきれない。
そこで、妥協の案として、中途半端な50字とか100字の記述問題が出てきたのです。
中途半端なものは、最終的にはどちらかに吸収されます。
だから、記述問題というものは、将来なくなっていきます。
その記述問題をコンピュータで採点するというのも、また間違った方向です。
50字や100字の記述問題の採点では、生徒の学力と記述の点数との誤差はかなり大きくなります。
採点基準を明確にすればするほど、コンピュータ採点の対策がしやすくなり、考える力よりもうまく答えるコツを身につけた方が有利になります。
だから、せっかくコンピュータを採点に利用するならば、機械的なアルゴリズムではなく、深層学習を使った採点にする必要があります。
その深層学習を使った評価に最も適しているのは、短い記述問題ではなく、長い作文問題なのです。
ある意味で、長い作文であればあるほど、その生徒の真の学力は正しく評価されます。
一日に長い作文を書かせるのが難しいのであれば、日を置いて複数の作文を書かせる形でもいいのです。
近い将来、この深層学習を使った作文評価ができるようになります。
すると、中途半端な記述問題というものはなくなります。
○×式の問題は、基礎学力をチェックするために残りますが、記憶力に頼るような瑣末な問題はなくなります。
だから、今の小学生は、記述問題の対策を考えるよりも、まず本を読むことと、作文を書く力をつけておくことです。
記述力よりも現実的な作文力というのは、評価の面でも、勉強の面でも言えることなのです。
ただし、言葉の森の自主学習コースでは、国語の問題集読書のあとに、50字から60字の記述練習をしています。
それは、今の時点では、まだ自分の考えを50字から100字で簡潔にしかもすばやく書く力は必要とされているからです。
2020年11月の米大統領選の直後に株価が大暴落するという予測があります。
そして、株価の暴落と並行して、ドル基軸体制が崩壊し、ハイパーインフレになるとも言われています。
そこに、現在のアメリカを中心とした農業危機が加われば、食料などは更に高騰するでしょう。
誰もが、今の先進国のマネー印刷バブルの限界に気づいています。
しかし、このバブルの崩壊を止める方法はもうないようです。
リーマンショックの対策で、どの国も金融政策の材料を使い尽くしてしまったからです。
アメリカのドルが崩壊すれば、ドル資産を大量に抱えている日本も無事ではいられません。
ただし、国債のほとんどが国内で保有されている日本は、むしろ世界のマネーの逃避先になり、日本だけは円も株価も高騰するという予測もあります。
しかし、日本も含めた世界的な規模で、これまでのバブル経済の上に成り立っていた多くの産業は衰退し、それに伴ってあらゆるところで倒産や失業が生まれるでしょう。
先進国のGDPを形成しているものの中には、人間にとって本当は価値のないものが大量に含まれていました。
その典型が軍事費ですが、それ以外にも、多くの人が仕事に携わっているその仕事そのものが、深く考えれば人間にとって本当には価値のないものであるということがかなりあったのです。
だから、今後予測される経済危機のあとに来る社会は、真に価値あるものが経済の中心になる社会です。
その真に価値あるものとは、第一に創造です。そして、第二はその創造の土台となる向上です。第三は社会への貢献です。第四は幸福です。
人間の生きる目的でもある、幸福、向上、創造、貢献が、最後に価値あるものとして残るものなのです。
これらの真に価値あるものの中でも、最も大事なものは、新しい創造を生み出すことと、その創造を生み出せるように子供たちを成長させることです。
だから、未来の社会は、創造と子供たちの成長を軸にして成り立つ社会になるのです。
しかし、そのような先の展望があるとしても、とりあえず人間は当面の経済危機に対処しなければなりません。
ここで考えなければならないのは、バブルの崩壊によって失われる虚構の経済があると同時に、ほとんどの人の日常生活は実質的な意味のある経済で成り立っていたことです。
ものを食べたり、電車に乗ったり、本を読んだり、勉強をしたりするのは、バブルの崩壊とともに失われる虚構の経済と同じものではありません。
だから、ここでバブル崩壊によって失われるマネーとは別に、意味のある経済を支えるマネーを作っておく必要があるのです。
その手段として最適なものが仮想通貨です。
本来であれば、国が公式の仮想通貨を発行し、その仮想通貨によってベーシックインカムを国民全員に支給し、それで生活に必要な経済を回していくのがいいのです。
しかし、そういうことが果たしてできるかどうかはわかりませんから、自分たちで独自に対策を立てておく必要があります。
そこで、言葉の森が考えているのは、経済危機と同時に、言葉の森の生徒全員に、勉強の継続に必要は仮想通貨を発行することです。
ベーシックインカムのように、毎月定期的に通貨を発行すれば、その通貨で勉強を続けることができます。
そして、講師の給与も仮想通貨で支給するようになります。
また、新しく教材を作ったり、新しい講座を始めたりする人は、自分の持っている仮想通貨を増やすことができます。
このようにして、バブル崩壊で失われるマネーとは別に、生活に必要な意味ある経済を独自の通貨で回していくのです。
では、衣食住などのリアルに必要なものはどうするかというと、それはそれで別の対処の仕方が考えられます。
そのひとつは、リアルな必需品を流通させる別の仮想通貨圏と連携することです。
教育や文化を中心とした経済のよいところは、誰もが消費者であるとともに生産者になれることです。
これまでの工業生産を中心とした経済の特徴は、生産が少数の企業によって担われ、ほとんどの人が消費者であるとともに、企業に雇用される労働者であったことです。
この仕組みは、経済の発展期には社会を豊かにする原動力になりましたが、生産力が飛躍的に上がり、生産者が更に少数の企業に集中するにつれて貧富の格差を生み出し、それが結局はバブル経済を生み出し、経済そのものの崩壊を招くようになったのです。
新しい社会は、農業と工業における高度に発達した生産力は、そのまま湯水のように利用できる豊かな社会になります。
そして、人が消費することを求めるものは、教育的文化的なものになり、それはまた、人がそれぞれの個性を生かして生産できるものになるのです。