動物行動学者であるローレンツの著書「ソロモンの指環」には、ローレンツがさまざまな動物たちと過ごした生活が愛情深く描かれています。
私は、昔どこかで次のような文を読んだ記憶があります。「動物と一緒に暮らしたことのない人には、世界の美しさの半分は隠されている」。ローレンツの本かと思って探してみましたが、そういう言葉は見つからなかったので、ほかの本だったのかもしれません。
動物と一緒に暮らす幸福感というのは、たぶんペット好きな人はすぐに同意するでしょう。朝、目をさますと、近くで犬が静かに寝息を立てているという場面など、しみじみといいなあと思うはずです。しかし、もちろんそうでない人からは、いろいろ異論がありそうですが(笑)。
ところで、この動物と一緒にいて幸福に感じる感覚というのは、人間にもともとあるものではなく、小さいころの環境によって学び取るもののようです。
犬を飼った経験のある人はご存知だと思いますが、ごく小さい子犬のころ、ワクチン接種による免疫がやっと完成しかけるころまでに、ほかの犬と接する生活を経験しないと、その犬は成長してからも正しい犬関係(人間関係のようなもの)を結べません。だから、今ペットとして飼われている多くの犬は、犬どうしで遊ぶことが苦手です。
これと同じことが、人間にもあてはまるのではないかと思います。子供が小学校に上がるよりも少し前の時期までに、動物に接する生活があると、動物と一緒にいる際の幸福な感覚が育つようなのです。
教育の目的のひとつは、人間が幸福な生活を送ることにあります。この場合の幸福感を、音楽や絵画や読書などの芸術感覚として考える人も多いと思いますが、もっと原初的な幸福感は、自然や動植物と一緒にいるときに感じる感覚です。空を見たり、山道を歩いたり、草の匂いをかいだり、動物をなでたりするだけで幸福感を感じることができるとすれば、その人は、そうでない人よりも、世界からより多くのものを得ていると言えるでしょう。
言葉の森の通学教室で、ペットの犬や小鳥を飼っていますが、それを見て、すごく喜ぶ子もいれば、あまり関心を示さない子もいます。そして、まれに犬や小鳥をこわがる子もいます。こういう感覚の違いは、成長しても変化がないでしょうから、子供が人生からより多くの幸福を味わえる機会を増やすためにも、小さいころに動物と接する時間を増やすといいと思うのです。
今の日本では、住宅事情によって犬や猫を飼うのは難しいかもしれませんが、文鳥やインコなどの小鳥であれば飼える家庭は多いと思います。小鳥は、ヒナのころからえさをやれば手に乗るようになります。あちこちフンをするので大変ですが、こういう生き物が家の中にいるだけで、家の中の雰囲気がなごみます。
話は少し脱線しますが、小鳥を飼うときにカゴの中に入れて飼うのはやや不自然です。そこで、私は、小鳥を野生状態で飼えたらいいと思い、手乗りになった文鳥やオカメインコたちを時々表に出していました。しかし、小さいころにカゴの環境で育った鳥は、やはり遠近感がつかめないようで、近くにいるときはすぐに戻ってくるのですが、風に乗って高くまで飛んでしまうと戻る場所がわからなくなってしまうようでした。
しかし、鷹匠などは、うまくそういう訓練をしているので、工夫次第ではできないことはないと思います。手乗りの小鳥を野生状態で飼うというのが、今の私の研究課題です。(そんなバカなことするなと、いつもみんなから言われていますが(笑))
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前回は、志望校の過去問を見て、傾向に合わせた課題を10種類作って実際に作文を書いてみる、という説明をしました。
今回は、その書き方の説明です。
■2、書き方は大きく四つぐらいのブロックに分けて
ほとんどの人は、あらかじめ構成を考えて文章を書くような書き方に慣れていません。課題を見て、とりあえず書き始め、書きながら考え、考えながら書きという形で最後まで書き上げます。こういう書き方でももちろん上手に書くことはできますが、文章に出来不出来の差が出てきます。
そこで、あらかじめ大きな構成を考えて書くようにします。その構成の仕方は、次のように考えていくといいでしょう。
▼(1)まず導入部
「今の世の中でこういう問題がある」などという形で、問題提起をしたり、意見を書いたりしていきます。この導入部の意見がシンプルに絞られていればいるほど、あとの展開がしやすくなります。逆に、最初の段落の意見があいまいだと、途中でどう進めていいかわからなくなることがあります。
よく、独自の意見を書くことを要求する問題がありますが、独自の意見などは、大人でも滅多に書けるものではありません。意見は、最初に思いついた平凡な単純なものでかまいません。独自性は、意見ではなく、実例や表現の部分で出していきます。
▼(2)次に展開部1
展開部とは、実例、理由、方法、原因、対策などを展開していく部分です。「その原因は第一にこういうことが考えられる。例えば……」と書いていきます。「例えば」の部分で文章をふくらませていきます。
▼(3)次に展開部2
「第二の原因として、このようなことも考えられる。すなわち……」というように、展開部分を複数書いて構成を立体的にしていきます。
構成を立体的にするとは、第一の話と第二の話をできるだけ異なるアプローチで書いていくということです。第一の話を人間的なところで書いたら、第二の話は社会的なところで書くというような書き方です。
高校生は、よく自分の問題として哲学的、人間的に考える傾向があるので、それとともに社会的、経済的に考える練習をしておくといいと思います。
▼(4)最後の結論部
最後の結論は、最初の意見に対応させます。「だから、こういうことだ」という結論を書きますが、できるだけ、自分の意見と反対の考えにも言及しながら書いていきます。字数を増やす場合は、この場合も「例えば」と具体的な説明を入れるようにします。
文章の結びは、最も印象に残るところですので、最後の5行に切れ味のいい表現をできるだけ盛り込むようにします。
このような書き方で、時間を測りながら目標の字数まで書いていきます。時間はオーバーしてもかまいませんが、自分がどれぐらいの速さで書けるのかを測定しておきます。
こういう書き方をするとパターンが似てくるので、作文の内容も同じようになるかというと、そういうことは全然ありません。なぜなら、中身として盛り込む実例や表現は、人によってさまざまだからです。
しかし、構成のしっかりした作文が増えると、採点する側は大変です。みんな、ある程度まで上手に書けるようになるからです。
採点する側の負担を減らすためには、自動採点ソフトを使うのがいちばんです。人間が、ある文章を読んで、漠然とよく書けていると思う文章は、語彙が豊富でバランスのとれています。逆に、同じぐらいの字数が書いてあっても物足りない感じが残る文章は、語彙の種類が少なくバランスがとれていません。しかし、その語彙の多様性というのは、ほんのわずかな差なので、人間では正確には読み取れません。
しかし、こういう採点が可能であるためには、作文試験をパソコンで入力することが必要になるので、今の時点ではまだ難しい面があると思います。
話は変わりますが、言葉の森が開発した自動採点ソフトは、既に何年間も、実際の作文の採点に使われています。それは、言葉の森の小学5年生以上の生徒は、パソコンで作文を書いている人が多いからです。
(つづく)
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言葉の森の作文指導は、中学入試、高校入試、大学入試それぞれの作文、小論文に対応しています。
ところが、高校入試と大学入試の小論文に関しては、今在籍している生徒が優先なので、新たな募集の余裕はほとんどありません。そこで、新たに受講できない人のために作文、小論文の勉強のコツを説明します。
ときどき、作文と小論文の違いは何かという質問を受けます。それに対しては、違いを考えるよりも、要するに上手な文章を書くことを考えればいいと答えています。
なお、ここで言う作文小論文試験とは、600字から1200字程度の文章を書くことが要求されているものです(少なくとも400字以上)。50字から150字の文章は、記述試験対策として書き方のコツを説明しますが、教室の指導としては行っていません。
■1、まず過去問を調べ、時間と字数と傾向を見る
まず、志望校の過去問を調べます。
一般に、公立中高一貫校の作文入試はかなり短時間です。しかも、最近の傾向として複数の文章や資料を読ませて書く形が多くなっているので、練習をして臨まなければほとんどの生徒が時間不足になります。例えば、30分で800字書くなどというのはザラです。この時間と字数の設定で、生徒を選抜している面もあります。
書くスピードをつけるには、速く書く練習をすることに尽きます。余白にメモを書いたあと、書き始めたらもう消しゴムは決して使わず、書く手を止めて考えたり、読み返したり、もちろん書き直したりせずに一気に最後まで書いていきます。これは、慣れるしかありません。
高校入試や大学入試では、持ち時間はそれほど短くはありません。90分で1200字程度のところが多いと思います。しかし、時事的な問題にからませたテーマが出ることがあります。この場合、時事的な知識を問うような問題が直接出るわけではありません。だから、時事問題の対策の参考書を買うようなことはあまり意味がありません。
時事問題は、直接の知識としてよりも、ものの見方や考え方の問題として出されます。だから、その時事的な話題を通して、文化的、時代的な変化を問うような問題になります。
例えば、原発の問題が出るとしても、原発の歴史や仕組みや単位などが出るわけではありません。また、政治的に議論の分かれるような問題は出ません。もっと大きく「科学の進歩と人間の幸福」とか「科学技術における安全性の意義」というような形で出ますす。
したがって、知識ではなく論を考えておくことが必要になります。そのためにいちばんいい方法は、本当は新聞の解説記事を半年から1年間分読むことですが、受験生にそういう時間はありませんから、お父さんやお母さんが、論を説明してあげる形で勉強します。論という形で出ている本としては、「日本の論点」(文芸春秋社)などが参考になります。
http://www.amazon.co.jp/dp/4165031003
このようにして、過去問をもとに傾向を調べたら、自分で10種類の予想問題を作ります。それは、題名だけの課題でかまいません。できるだけ幅広く、10種類の課題を作り、それを書いていきます。
実は、文章を書く練習というのは、きわめて負担の大きい勉強なので、ある程度の強制力のある環境でないと書けません。もちろん、気ままに書く文章であればそういうことはありませんが、入試用の合格できる文章を決められた時間と字数で書くというのは、ひとりで行う勉強としてはかなり大変です。
私が、昔、自分ひとりで1200字の文章を書く練習をしていたときは、ファミリーレストランに入り、そこで1時間1200字の文章を書くまでは出てこないと決めてやっていたことがあります。注文は、コーヒー1杯だけ(笑)。もちろん、空いている店の空いている時間帯にやっていたのであまり迷惑にはならなかったと思いますが。(^^ゞ
(つづく)
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小学生で本をよく読む子と読まない子の違いはどこにあるかという、親が本を読むかどうかによるという調査結果があります。
http://www.edita.jp/education2/one/education28260458.html
私は、この調査を見たとき、それはそうだろうと思いましたが、今さらそういうことを言っても解決策にならないだろうと思い、このことはあまり強調しませんでした。
例えば、保護者から、「うちの子は、本を読まないんですが、どうしたらいいでしょうか」という相談がよくあります。
そのときに、「それは、お母さんが本を読まないからです」と言っても、何の解決にもなりません。
また、親が本を読まないでも、子供がしっかり本を読む例はたくさんあります。例えば、古い話になりますが、野口英世と野口英世の母の関係はまさしくそうだったでしょう。
今の親の親にあたる世代は、戦争中に青少年時代を過ごし、戦後の経済成長を猛烈に仕事をしてきた世代ですから、当然本を読む余裕などはありませんでした。現に、私の家でも父や母は教養のある人でしたが、家で本を読んでいる姿を見たことはほとんどありません。生活が忙しくてそんな余裕はなかったのです。しかし、子供である私は本好きになりました。
だから、子供の読書嫌いを、親が本を読まない結果と考えるのは、物事の一面を表してはいますが、それが決定的な要因ではないし、工夫次第でいくらでも子供を本好きにする方法はあると思っていたのです。
そこで、言葉の森が保護者に提案する読書の方法は、「毎日10ページ以上読む」ということにしました。これなら、どんな子でもできます。また、低学年で文字をスムーズに読めない子の場合は、親が10ページ以上読んであげればいいのです。
なぜページ数であって時間ではないかというと、もし10分間というような時間で区切るようにすると、読んでいる途中に時計を気にして読書に集中できないからです。また、ほかの勉強でも同じですが、時間を区切ってやる形の勉強は集中力が低下します。一生懸命にやっても、遊びながらやっても同じ時間までやらなければならないということになれば、だれでも遊びながらやる方を選ぶからです。
10ページというのは、大人が普通に黙読する時間としては10分ほどです。これぐらいの分量なら毎日読むことは苦痛でもなんでもありません。
そして、本というものは人間を引きつける要素がありますから、10ページ以上と決めて読んでいると、必ず途中で止まらなくなってもっとたくさん読むようになります。読書が苦手なうちは、10ページぴったりでやめていても、読む力がついてくれば、自然に読む楽しさに目覚めてきます。
ところが、ここで大事なのが毎日ということです。2日に1回とか、週に3,4回ということではなく、毎日欠かさずに読むことが条件です。なぜかというと、読書というものは毎日の習慣になると自然に読めるのですが、1日でも読む日がないと、そこで習慣が止まってしまうことが多いからです。
読書には、このような性質があるので、子供の読書冊数についても、よく読まない子と全然読まない子に二極分化します。読む子と読まない子がなだらかな曲線になるのではなく、読む子は毎日読むし、読まない子は全然読まないという分布になるのです。
毎日10ページ以上という読書の仕方を続ければ、だれでも本を読むようになります。学校で取り組まれている「朝の10分間読書運動」も、同じ考えです。何を読むかとか、どう読むかとかいう難しいことを一切抜きにして、自分の好きな本を10分間読むというだけで、小学生の子供たちの学力も読書力も向上したのです。
しかし、私は、その後、家庭での毎日10ページの読書というのが簡単に見えて、意外に難しいのではないかということに気づき始めました。その理由は、親自身に毎日本を読む習慣がないので、子供がたまに本を読まない日があってもそれを見過ごしてしまうからなのです。
すると、最初の調査結果にあったように、親が本を読まないから、子供も本を読まないという結果になるということがわかってきました。
だから、子供を本好きにするためには、子供だけに毎日10ページ以上の読書をさせようとするのではなく、家族ぐるみで、父親も、母親も、大きい子も、小さい子も、まだ本を読める年齢になっていない子も含めて、すべての人がその時間はいったんテレビなどを消して本を読むというようにしなければなりません。
このときに、親がどのような本を読めばいいのかというと、それは子供の読書と同じです。自分の好きな本でいいのです。ただし、漫画や図鑑や雑誌は、この場合の本とは見なさないと決めておきます。
子育ての一環として、家族で本を読む時間を確保すれば、そこから親子の対話も増え、読書のある生活が家庭の文化として定着していくでしょう。
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人間社会の富の源泉は、方法にあります。
例えば、人間が最初に作り出した富は、農業的なもので、自然の植物を栽培しそれらを自分たちの食糧として確保したというのが始まりです。
その植物は、太陽の光と水と空気という自然の素朴な力を光合成という方法によって炭水化物に変えています。つまり、人間が農業において生み出した富のもともとの源は、植物における光合成という方法だったのです。
人間は、その光合成という方法を土台として、その上に、農業の道具や栽培の仕方など新たな方法を積み重ねて、より大きな富を蓄積してきました。
方法がなぜ富を生み出すかというと、方法はいったん作られるとその維持のためにかかるコストがゼロになるからです。しかし、その方法によって増した生産力は、永久にその増した状態を維持します。だから、方法こそが富を増大させる本質的な要素なのです。
しかし、方法というものはそれ自体では動き出しません、方法を動かすためには、エネルギーが必要です。そのエネルギーのひとつは人間の労働です。そして、もうひとつは牛や馬やガソリンや電気など動力となるものです。最初に富の源泉が方法だと書きましたが、正確に言えば、富を作り出すもとになるものがエネルギーで、富を増大させるもとになるものが方法なのです。
農業時代のあとに来た工業時代においても、富を増大させたものは、工業の方法でした。例えば、今、私たちの生活は自動車や電車などの輸送機関の利用を抜きにしては考えられません。それらの輸送機関は、現代の社会の豊かさの重要な要素です。では、その自動車なら自動車がもたらしている大きな富はどこから来るのでしょうか。それは、自動車というものが工業的な方法が何重にも積み重なった高度な方法の複合体であるところから来ているのです。
ところが、方法はいったん作られれば、そのコストはゼロになるはずです。それなのに、自動車が1台何百万円もするのはなぜかというと、方法はゼロなのに、工業生産物においてはその方法を動かすときにエネルギーが必要となるからです。そのエネルギーの中には、もちろん人間の労働も含まれますが、それよりも大きいのは動力機関を動かすもとになる電気化されたエネルギーです。だから、自動車とは、方法化されたエネルギーの複合体だとも言えるのです。
しかし、今後、人類は、エネルギーの低コスト化、更には無料化に向けて科学を発達させていくでしょう。石油や石炭や原子力などを使わずに、よりコストの低いエネルギーを作り出す方法がやがて見つかると思います。もし仮に、エネルギーのコストが限りなくゼロに近くなったとすれば、今、社会を埋め尽くしている農業と工業の生産物、つまり、食料品、衣服、自動車、住宅など、方法化されたエネルギーの複合体である生産物のコストは、すべて限りなくゼロに近くなっていきます。光合成という方法のコストがゼロであるように、自動車を作る方法のコストももともとはゼロだからです。
こうして、農業や工業の生産物がほとんど無料で手に入るようになったとき、次の時代の富の創造の場所はどこになるのでしょうか。その場所が教育なのです。
人間の能力は無限に発展する可能性を秘めています。それは、世界中に古今東西、多様な天才が生まれてきたことでわかります。しかし、そのような才能は、偶然先天的に生まれたものだと考えられていました。ところが本当はそうではありません。例えば、ヨーロッパで長い間、先天的な能力だと思われていた絶対音感は、日本のある一定の音楽教育によって誰もが習得できる教育的な能力だとわかってきました。同様のことが、今後、あらゆる分野で明らかになってくると思います。
すると、そこで焦点になるのは、教育における方法です。工業生産物においては、ある方法の上に別の方法が組み合わさるという形で方法の複合化が起こっていました。教育においては、ある人間のある年齢で身につけた方法の上に、次の年齢での方法が積み重なるという形で方法の複合化が起こります。そして、すべての人が人間の能力を全面的に開花させて成長するというのが、工業時代のあとに来る豊かな社会の富の姿なのです。
その最先端にいるのが日本です。日本では、大衆化されたカルチャーセンターや趣味の教室の広がりに見られるように、庶民が自己の向上と個性の開花に高い関心を持つ世界でも珍しい国です。この不思議な民族性が、江戸時代における道の文化を生み出してきました。今は、この江戸時代の文化のDNAが、日本の社会で新しく開花し、新たな創造的文化産業の時代が生まれようとしている前夜だとも言えるのです。
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