製造業は、今急速に新興国に追い上げられています。中国の工業国家としての台頭に伴って、日本がこれまで掲げていた製造業による経済発展の方針は、大きく軌道修正を迫られています。
しかし、日本の新産業は、観光業や小売業などのサービス産業ではありません。サービス業は、思いやりに富んだ日本人の持ち味を生かせる分野ですが、そこには創造性がありません。サービス業は、他人に尽くすだけの産業です。日本がいったんサービス産業中心の国家になれば、観光産業に依存する国が衰退していくように、そこから抜け出ることはできなくなります。
製造業を高度化することによって、日本の製造業を守るという考えもありますが、高度化できる製造業の雇用創出力は限られています。1億2千万人の日本人の雇用を高度な製造業だけでまかなうことは難しいでしょう。
もし日本が、海外との貿易を行わず、鎖国的な経済でやっていけるのであれば、国内でお金を回す仕組みを作るだけで経済は豊かになります。しかし、国際経済を否定することは現代ではできませんから、世界にも通用する価値を持ち、多くの国民を雇用できる新しい産業を創造していく必要があります。
それが創造産業です。企業でも個人でもかまいませんが、何か新しいことを発案し、その創造によって日本社会に貢献することが期待される知識や技術を発掘し、その知識や技術を国が買い上げ、すべての日本人が自由に利用できるようにするのです。その買い上げの金額は、もちろん半端なものではありません。オリンピックで金メダルを取ると、それだけで一生安泰に暮らしていけるという国がありますが、それぐらいの金額を保証します。これが、日本の新しい産業です。その創造産業には、農業も、製造業も、サービス業も含まれます。大事なのは、物品やサービスの対価によって成り立つ産業ではなく、創造の対価によって成り立つ産業だということです。
しかし、この産業が、日本の国民的産業として成り立つためには、大多数の日本人が創造的にならなければなりません。その創造性の根底にあるものは、日本語の理解力と表現力です。今の日本の社会で、学力の底辺にいる子供たちは、何よりも国語力が不足しています。それらの子供たちが自立して、社会全体の創造に参加できるためには、全教科を満遍なく教える教育をやめて、国語の読解力だけに焦点を絞った教育を行っていく必要があります。国語の読解力の低下した子供たちが、もしこのまま成長して社会人になれば、そのときに日本の国が支払うコストは膨大なものになります。そのコストを先取りするためにも、子供たちの国語読解教育に最重点を置いていく必要があります。その方法は、少人数制で本を読ませる教育です。
ところが、読解力だけが必要な水準に達しても、そこから自動的に創造性が生まれるわけではありません。理解とは静的なものですから、そこから創造という動的なものにジャンプするためにはもうひとつのステップが必要です。それが、特定の知識や技術の習熟です。基礎教養として、多くのことを理解しているだけでは不十分で、それに加えて、その人でなければできないような特定分野の習熟が必要になるのです。知識や技術には、時間をかけることによって、その知識や技術が自分の手足のように自由に使えるようになるという面があります。この時間的な要素が、身体や感情や言語という不完全なものを持つ人間の優れた特質です。例えば、ある作業を繰り返していると指にタコができるということがあります。このタコが、身体の持つ時間性です。知識にも、似たような面があります。単に知識を知っているだけでは、百科事典をそろえていることと変わりません。タコができるぐらいに知っていることによって、そこから新しい創造の可能性が生まれてきます。
これまでの教育は、記憶力の再現を中心とした教育でした。しかし、その教育は大きな曲がり角に来ています。先日、大学入試で、携帯電話とインターネットを利用したカンニングがありましたが、こういう形のカンニングは、今後防ぐことができなくなります。調べてわかることや、人に聞いてわかるようなことがいくらできても、それは価値あることではないというふうに、評価の根本を変えなければならないのです。では、何が価値あることかといえば、それは創造です。その創造のための教育としてこれから必要になるものが発表の教育です。つまり、文章でも、音楽でも、絵画でも、工作でも、又はさまざまな学問分野でも、自分の作ったものを表現することが教育の中心になります。知識や技術の土台は、その発表のための前提として必要なのであって、知識や技術自体に価値があるのではありません。
全国民が、幅広く満遍なくさまざまな知識、技術を身につけるとともに、その人の個性に応じたある特定の分野に習熟し、その習熟をもとに個性的な創造を行うという発表の教育がこれから必要になってきます。そして、理解力の中心が国語的な読解力であったように、発表の教育の中心は国語的な作文力になるのです。
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作文が返されたあと、その作文をテストや何かと同じようにすぐにしまうのではなく、その内容を見てみます。そして、子供が作文に書いた内容について、お父さんやお母さんが共感してあげるのです。
その対話の仕方は、こんな感じです。
「ほう、こんなことを書いたんだ」と、まず内容に目を向けます。しかし、そのあと、「この字が違っている」とか、「この文がおかしい」などという批評はしません。また、子供の書いた感想や意見についても、「もっとこう考えた方がいい」ということも言いません。
しかし、「ほう」と感心しただけでは、そこで話が終わってしまいますから、お父さんやお母さんが、そこで似た実例を話してあげるのです。「この話については、お父さんも、昔こういうことがあったなあ」というような話題の広げ方です。似た例で話を広げていくというのが、対話を発展させる最もいい法です。
似た例には、体験の似た例と知識の似た例があります。体験は、実際にお父さんやお母さんが体験したことで、この体験実例が子供にとっては深く印象に残ります。もうひとつの知識実例は、本を読んで知っていることです。これも、エピソードを面白く話せれば、子供との話が弾みます。
実例以外の話題の広げ方は、その作文の感想に対する、新しい理由、方法、原因、対策を考えていくことです。
例えば、子供が、意見文の「○○はよいか悪いか」というテーマで、「よい」という意見の複数の理由を書いていたとします。そのときに、お父さんやお母さんが、意見そのものでディスカッションを始めるのでは単なるディベートになってしまいます。日本人の対話には、ディベートよりももっといい方法があります。それは、意見そのものには賛同した上で、子供が考えた理由に追加する新しい理由や、新しい方法を考えることです。また、子供と同じ理由で、親が新しい実例を考えることもできます。つまり、批判によって話を発展させるという欧米流の弁証法的方法ではなく、新たなものを付け加えるという創造的方法によって話を発展させるのです。
更に言えば、理由にも、Aのよい理由とBの悪い理由の二つが考えられます。方法にも、個人の心構え的な方法と社会的な方法の二つが考えられます。原因にも、歴史的原因と社会的原因の二つがかんがえられます。何だか、作文の勉強のようになってきましたが。(^^ゞ
では、意見そのものにどうしても反対したくなったときはどうするのでしょうか。そのときは、反対意見の理解という方法が使えます。
例えば、「○○はよいか悪いか」というテーマで、子供が「よい」という意見を書いていたが、お父さんは「悪い」と思っていたとします。そのときに、「おまえの言っている『よい』とう意見はおかしい。お父さんはこういう理由で『悪い』と思う」とやり出したらどうなるでしょうか。日本人は、言語脳と感情脳を左脳で一緒に処理する世界でも唯一の日本語脳を持っているので、とたんに親子とも消化不良になってしまいます。日本人には、食後の話題でディベートは向かないのです。
そこで、反対意見への理解を使います。お父さんが、「うーむ。君はよいと思うかあ。確かにこういう理由で悪いという意見もあるかもしれないけど、やはり君の言うようにこういう理由でよいという考えもあるんだろうね」。この反対意見への理解の部分が、お父さんの言いたい意見です。こういうおくゆかしい方法で、だれも批判せずに二人で新しい意見を共有できるのです。
日本の家庭には、もっと対話が必要です。しかし、その対話を欧米風の討論として行ったのでは、かえって子供が成長してから日本の社会で不適応を起こします。日本人は、討論で勝った人をあまり尊敬しません。しかし、もちろん討論に勝てない人を尊敬するわけではありません。討論に勝つ実力はあるが、そういう討論を好まない人を尊敬するのです。(つづく)
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作文の勉強は、国語の勉強の一部と思われています。また、国語の勉強は、国数英理社などのさまざまな教科の一部と思われています。しかし、本当は違います。
国語の勉強は、国数英理社などの教科と同列の勉強ではなく、それらすべての教科の土台となる理解力、思考力をつける根本の勉強です。だから、国語力のある子は、たとえ今、ほかの教科があまりできなくても問題ありません。本気になって取り組めば、ほかの教科の勉強もすぐにできるようになるからです。しかし、逆に、国語力のない子は、たとえ今ほかの教科がよくできていても、将来に不安が残ります。考える勉強になればなるほど、どの勉強にも国語的な思考力が必要になってくるからです。
ところで、国語の勉強は、日本では漢字の読み書きの勉強のように思われていますが、漢字力は国語力のごく一部です。その証拠に、漢字力が国語力として評価されている国は、世界でも日本と中国だけです。国語力の中心は、文章を読んで理解する力、つまり読解力と、考えたことを表現する力、つまり作文力です。だから、子供たちの勉強の中心は、読書と作文になるのです。
この作文の勉強を、言葉の森では、従来の「点数の勉強」としてではなく、「対話の勉強」として考えています。
作文以外の勉強は、ほとんどすべてが点数の勉強です。学校や塾でテストがあると、点数のついた答案が返されます。たいていの親は、その点数を見て、よくできていたかあまりできていなかったかを判断し、それで返されたテストはしまってしまいます。もちろん、ほとんどの子供もそうです。テストというものは、習ったことの定着度を調べるためのものですから、点数がわかればそれでいいのです。しかし、そのテストと同じような見方で作文を見てしまうのでは、作文の勉強を生かしたことにはなりません。
もちろん、言葉の森でも、作文の勉強をできるだけ客観的に評価できるように、点数の評価を行っています。例えば、森リンの点数ランキングや、毎回の作文の項目のでき具合による○×評価などです。作文の評価でこのように客観的な採点を行っているところはほかではほとんどありません。従来のほとんどの作文評価は、評価する人の主観に左右されるので、人によって点数が変わったり、あるいは同じ人でも日によって点数が変わったりしています。
しかし、言葉の森では客観的な点数は出していますが、小学校4年生以下の生徒には、あまり点数を意識させないように工夫しています。例えば、毎月の森リンのベスト10で、小4以までは上位の作品を表示していません。それは、なぜかというと、お父さんやお母さんが、その点数や作品を見て、点数の競争で子供に意欲を持たせようとすることがあるからです。「この第1位の作文に負けないように書きなさい」というような励まし方をするお父さんお母さんがかなりいるのです。
作文は、ほかの勉強と違い、がんばったからといってすぐに上手になるものではありません。作文の上達には、きわめて長い時間がかかります。それは、作文力が、その子の本当の学力とむすびついているからです。短期間の努力ではすぐに上達しない勉強を、点数の競争としてあおられると、子供はかえって意欲を失います。
そこで必要になってくるのが、対話の勉強です。作文が返却されたあとに、それをすぐにしまうのではなく、お父さんやお母さんがその作文を読んでみるのです。しかし、読んだあとに、「この字が違っている」とか、「もっとていねいに書きなさい」とか言うために読むのではありません。特に、子供と接する時間の少ないお父さんは、子供の作文を見ると批評したくなると思うので、言いたくなるのをぐっと抑えてください。子供の書いた作文を読むなり、「ここがおかしい」などと言っているようでは、作文の見方は合格とはいえません。(つづく)
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