勉強もよくでき性格もよいという子からときどき聞く言葉に、継続の大切さということがあります。
家庭で、折に触れて継続ということを言われているのだと思います。
よくできる子は、何か特別な方法を集中して身につけたのではなく、平凡なことを毎日欠かさずにやってきたのです。
例えば、毎日音読を続けているとか、毎日読書を続けているとかいうことです。
生活面で言えば、毎日決まった時間に起きるとか、決まった時間に勉強するとかいうことです。
ある時期に熱中して取り組むとか、新しいやり方を試すとかいうことももちろん大切ですが、基本になるのは誰でもできる平凡なことを毎日欠かさずに続けるということです。
江戸時代の寺子屋の勉強法も同じでした。
基本となる学習法は、素読という、四書五経などのテキストを何度も繰り替えし音読しその言葉を自分のものにするという方法でした。
その平凡な誰でもできる勉強法で育った子供たちが、明治期の日本の急速な近代化の推進力となったのです。
その原則は、今の時代も変わりません。
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「どんな子でもできるようになる勉強法――そのコツは毎日続けること」
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あるとき、全然作文が書けない、書けても間違いだらけ、しかも字数もほんのわずか数行だけ、そして、何よりも文章がほとんど読めないという小学校高学年の子が、言葉の森の教室に来ました。
本人もお母さんも、どうしたらいいか途方に暮れていました。
その子とお母さんに説明した勉強法は、何しろ毎日、長文を音読すること、できれば暗唱するぐらいまで読むことでした。
音読は、ただいろいろな文章を音読すればいいのではありません。
その文章を暗唱できるぐらいまで同じものを繰り返し読むことが大事です。
ところが、大抵の子は、同じものを繰り返し読むのは退屈するので、次々に新しい文章を音読したがります。
それでも音読をしないよりはましですが、繰り返し読むのに比べて効果はぐんと落ちます。
学校で音読の宿題を出すところが増えてきましたが、全体に繰り返しの回数が少ないのではないかと思います。
その子の学校はそういう宿題がなかったので、言葉の森の長文の音読だけを毎日続けました。
その子は漢字がほとんど読めなかったので、言葉の森のサイトで全部ルビ振りにしたものを印刷して、同じものを1週間読むということにしました。
そして、それに加えて毎日の読書も必ずやってくるようにしたのです。
すると、ある時期から急に作文が長く書けるようになり、数年たつと同学年の生徒よりも語彙の豊富な立派な文章を書けるようになりました。
そして、高校入試では、数年前には考えることもできなかったような第一志望の高校に合格したのです。
その間、やっていたことは毎日の音読と読書だけです。
大事なことは、その音読と読書を毎日一日も欠かさず続けたことです。
勉強でうまくできないことがある子の勉強の仕方には特徴があります。
それは、お父さんやお母さんが、あるとき集中して教えるような勉強の仕方をしていることです。
休みの日に数時間集中してそのことを教え込むような勉強の仕方をすると、確かに何とかできるようになります。
しかし、そこで、親も子もくたびれ果ててしまうのです。
そして、しばらくすると、またもとの何もしない状態に戻ります。
ある時期集中して勉強するという勉強スタイルは、お父さんやお母さんの教え方だけでなく、子供の勉強スタイルにも出てきます。
そういう子は、やっているときはすごくがんばっているように見えます。
しかし、そういう勉強法では効果が出ないので、やはり自分はその勉強は苦手なのだと思ってしまうのです。
小中学生の勉強に、苦手ということはありません。ただ、毎日やる仕組みを作っていないだけなのです。
勉強の基本は、あるときたくさんではなく、毎日少しずつです。
言葉の森の自主学習クラスも、この毎日少しずつが自然にできるようになることを目的にしています。
特に、国語問題集読書のような勉強は、家庭でやるとすぐに飽きてしまいます。
成果がすぐに目に見えないような勉強こそ、この毎日少しずつという勉強の仕方が大事なのです。
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ときどき、どんな勉強の仕方をしたらいいか聞かれることがあります。
また、どんな本がいいか聞かれることがあります。
いい勉強の仕方も、いい本ももちろんありますが、何よりも大事なことはそれを続けることです。
だから、親の役割は、子供にあるひとつのことを続けさせることなのです。
大人でも、その人の持ち味は、何をがんばったかとかいうことよりも、何を続けてきたかということにあります。
これから、子供たちの教育にも、多くの高齢者が参加するようになると思いますが、そのときに役立つのは、学歴や資格よりもまず、その人がそれまで続けてきた仕事の経験です。
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忘れ物をしたり、遅刻したりする子がいた場合、その忘れ物をしたことや、遅刻したことを叱っても、あまり効果はありません。
人間は、叱られることによって、よい習慣を身につけるのではなく、褒められることによって少しずつよい習慣を身につけていくからです。
だから、親や先生の役割は、子供が失敗したことを叱ることではなく、子供に成功させるようなやり方をさせ、その結果成功したことを褒めることなのです。
評価の本当の役割もそこにあります。
テストというと、子供を冷たく評価して、できていないところを指摘することが目的のように考えている人も多いと思います。
しかし、テストの本当の役割は、そのテストの目標ができるようにさせて、その結果を褒めることにあるのです。
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「うまく行っていないときほど、その中でのよいところを褒める」
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勉強でも作文でも、うまく行っていないときは、本人でもわかります。うまく行ったときに比べて手応えがないのです。または、明らかにうまく行かなかったという感覚があります。
そのときに、周囲にいる人、特に身近なお母さんなどに、そのうまく行っていないところを指摘されると、わかってはいても、やはりがっかりするのです。
それは表面に出る注意だけではありません。お母さんが、渋い顔をして心の中で思っているだけでも、子供にはそういう感じが伝わります。
何も言われなくても、子供は自信をなくしていくのです。
だから、うまく行かなかったときや、失敗したときほど、お母さんはそのうまく行かなかった中でのよかったところを褒めてあげることです。
そして、子供が明るい気持ちになったところで、毎日の読書と音読とそのほかの自習を気長に続けていくのです。
そういう日常を何度も繰り返しているうちに、ある日ふと気がつくと、いつの間にか、こんなにできるようになっていた、と思うときが来るのです。
こういうお母さんの気長な忍耐力を支えるものは、お母さん自身の心の安定です。
そのお母さんの心の安定には、お父さんの協力と感謝が必要です。
しかし、たとえそういう協力的なお父さんがいなくても(笑)、お母さんは自分の力で自分の心を安定させ、子供にはいつも明るく褒めて接することです。
その方法は、そう決心することです。
「自分は、この子のいいところだけを見ていつも褒めていくようにしよう」と決心すれば、それが次第に自分の天性のようになっていくのです。
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作文のテストというと、できていないところを指摘することのように考えている人がよくいます。
しかし、テストというのは、そのテストをきっかけにして、これまでできなかったことをできるようにさせることにあります。
例えば、字数がなかなか伸びない生徒も、テストだからということで、先生が協力してこれまで書けなかった字数まで書くようにさせると、それが自信になり、その字数まで書く実力がつきます。
先生の役割は、冷たく評価することではなく、子供と一緒に目標を達成することにあるのです。
作文のテストのとき、「今日は、千字まで書かなかったら不合格だからね」と冷たく言う先生と、「今日はテストだから、先生と一緒に千字まで書くようにがんばろう」と熱く言う先生と、どちらいい先生かと言えば、もちろん一緒にがんばろうとする先生の方です。
そして、更にいい先生は、言葉だけでなく、子供に実際にその目標の字数まで書かせてしまう先生なのです。
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勉強は理解することであって、覚えることではないと考えている人が多いと思います。
しかし、それは実は逆なのです。
掛け算の九九を考えてみるとわかると思いますが、掛け算を一覧表にして理解して覚えようとすれば、暗唱よりもずっと長い時間がかかります。そして、不正確にしか覚えられません。
音読をして暗唱する覚え方であれば、覚えようという意識をしなくても、自然に口をついて出るようになります。
しかも、その記憶が一生残るのです。
勉強には、理解する知識と、身体化する知識の両方が必要です。
暗唱は、身体化する知識の方です。
百人一首の暗唱をすると、日本語の語彙や情感が身体化されるのです。
そして、効果はそれだけではありません。
学校の勉強で、中学生ぐらいになると、いろいろと覚えなければならない知識が出てきます。
暗唱をしている子は、それらの知識を習得する度合いが速いのです。
暗唱検定に合格する子が増えています。
しかし、まだひとりで家庭で暗唱に取り組むだけでは途中で挫折してしまう子もいるようです。
そういう子供たちのために、寺子屋オンラインの発表学習クラスでは、希望する生徒に毎週暗唱のチェックも行うようにしています。
子供はやはり、ほかの友達と一緒に勉強を共有することで楽しく続けることができるのです。
発表学習コースの詳しい案内は、下記のページをごらんください。
発表学習コース案内
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「暗唱検定3級の暗唱長文のルビの一部訂正――百人一首の暗唱の仕方」
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暗唱検定の3級は、百人一首です。
ルビ振りで一部訂正や追加がありましたので、今3級を練習している人に、訂正の箇所が分かるものをお送りします。
ウェブの長文の方は直っています。
https://www.mori7.net/mine/as2.php
百人一首は、一首ずつ区切られているので、続けて暗唱するのが難しいと思います。
コツとしては、五七五七七の最後の七と、次の歌の最初の五をできるだけ区切らずに読むことです。
例えば、最初の二首では、「……露に濡れつつ、春過ぎて……」のように読むのです。
音読をしていると、その音読が耳に残るので、無意識のうちに、次の歌が出てくるようになります。
また、歌のつながりを、イメージ化できるストーリーにして、「露の玉の中から、春がポコンと飛び出してきた」のようにしてもいいと思います。
歌の頭文字だけを続けて覚えるという方法も、早く覚えるには有効ですが、そういう知的な操作が入ると、思い出しながら読むという読み方になるので、なかなか早くは読めません。
頭文字で覚えたものであっても、できるだけ音読だけで続けて頭に残るように読んでいくようにしてください。
百人一首は、本などでも豊富に出ていますが、暗唱するための教材は1種類に絞ってください。
人間は、その歌が教材のどの辺にあったかということも含めて記憶するので、教材が2種類以上になると、急に覚えにくくなります。
音読の繰り返しで自然に覚えるという方法のコツがわかると、いろいろな勉強に応用できます。
また、毎日暗唱の練習をしていると生活に張りが出てくるので、ほかのことも積極的に取り組めるようになります。
お父さん、お母さんも、子供さんと一緒にぜひ暗唱に取り組んでみてください。
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暗唱のいちばんいいやり方は、動きながらやることです。
だから、歩きながら暗唱したり、体を動かしながら暗唱したりすると、楽に暗唱できるようになります。
また、ゆっくり読むのではなく、できるだけ早口で読むことです。
こういうことがわかってくると、何かを覚える必要があるときに、すぐに取り組めるようになります。
暗唱の効果で意外なのが、元気が出てくることです。
それから、歩いて出かけなければならないときに、歩くことが退屈になりません。
周りの景色を見ながら、自分の好きな文章を暗唱して歩いていけるのです。
日本語の暗唱だけでなく、英語の暗唱もこのやり方で身につけることができます。
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3月から、寺子屋オンラインという少人数のクラスを始めています。
このオンライン少人数クラスのいいところは、必要に応じてすぐにクラス分けができることです。
例えば、全体の人数が10人いて、学年がばらばらだった場合、全体の話のあとすぐに、同じ学年別別に数人ごとにクラスを分けて話を進めることができます。
しかも、そのときに参加している子供たちは、日本全国どころか、世界中の異なる地域から来ることができるのです。
もちろん、実際には時差があるので、同じ時間帯に勉強する生徒は、時差の近い地域に限られますが、それでも日曜日のイベントなどはより広い範囲から参加者が集まれます。
オンライン少人数クラスのもうひとつのいいところは、友達と正面を向いて話ができることです。
通学教室の場合は、机の並び方は、多くの場合横並びになるので、全体に向かって話がしにくいところがあります。
しかし、ディスカッションなどがしやすいように机を円形に並べたら、今度は肝心の勉強がしにくくなります。
オンラインのクラスの場合は、みんながお互いの話を正面から聞けて、しかも、勉強するときには自分の机に集中して取り組むことができます。
そして、こういう形で勉強面で毎週交流している子供たちが、夏合宿などでたまにリアルに会うのです。
すると、これが不思議なことに、初めて会った子供どうしでも、初対面という気が全くせずに、学校などの同じクラスの友達と会うような雰囲気で交流が始まるのです。
こういう交流が続いていくと、やがて生徒が高校生になり大学生になり、言葉の森を卒業するようになったあとも、同窓会の形で交流が続くはずです。
そして、そういう卒業生たちが、夏合宿で後輩の子供たちの面倒を見るようになるのです。
オンライン少人数クラスとか、オンライン懇談会というと、まだ、「パソコンが苦手だから」とか「やったことがないから」と、敬遠する人が多いと思います。
しかし、実際にパソコンやタブレットで入ってみれば、設定なども何も必要なく、そのまま自然に普通の会話が始まります。
わからないことがあれば、その場で聞けばすぐに解決します。
これからは、オンラインの少人数クラスが、学習形態の中心になってくると思います。
だから、言葉の森が考えているのは、その先の話です。
インフラは、誰でも同じように利用することができるようになります。
しかし、大事なのは、新しいインフラを利用することではありません。
そのインフラに何を載せるかということです。
その載せるべき内容は、これまでの単に知識を詰め込むテスト中心の教育ではなく、創造性と共感力と思考力を育てる教育なのです。
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「個性と創造性を伸ばす教育は、人間の交流の中から。そして人間の交流を支えるツールは、オンライン教育」
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オンラインの教育のいいところは、アットホームな雰囲気で勉強ができることです。
それぞれの生徒が、自分の家で勉強に参加するのですから、先生が生徒に、
「今、どんな本読んでる」
などと聞くと、生徒が、
「あ、ちょっと待ってて」
と、ごそごそと横に置いてある本棚を探して見つけてくるということがよくあります。
また、何か複雑な連絡がある場合は、先生が、
「お母さん、いるかなあ」
と聞くと、
「います。おかあさーーーーん」
「はあい」
などという場面もよくあります。
また、子供どうしは、お互いに東京と大阪のように遠く離れていて、会ったこともないのに、他の人の本の紹介や趣味の紹介を見て、
「おもしろそうなので、自分もその本を読みました」
とか、
「自分も、家でその実験をしてみました」
などということがときどきあります。
しかし、これまでの形式の勉強をオンラインにするだけでは、こういう交流はできません。
勉強の仕方も、オンラインに合わせて、自学自習+発表学習に変えていく必要があるのです。
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オンライン教育は、もはや可能性の段階ではなく、現実に効果を発揮する段階になっています。
しかし、それは、デジタル黒板とか、デジタル教科書とか、タブレット端末とかいう外見だけの新しいICT教育とは全く別のものです。
言葉の森の教材の基本は、あくまでも紙です。そして、作文の基本は手書きです。
教育とは、身体感覚に根ざしたものでないと身につかないからです。
ただのインフラだけだったら、言葉の森の真似ばかりしているブ○○○○○○や、べ○○○と同じになってしまいます(笑)。
こういうところは、宣伝文句なども、言葉の森がこれまで書いていたこととそっくりです。
だから、言葉の森は、付け焼き刃では真似のしようのない哲学に基づいた教育をしていきたいと思っています。
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子供が何か質問すると、自分で調べなさいとか、自分で考えなさいとか、先生に聞きなさいとか言ってしまうお母さんは多いと思います。
それは、子供が自分の力でやるようにさせたいという気持ちの表れかもしれませんが、このやり方は実はよくないやり方なのです。
なぜかというと、子供は、「自分で○○しなさい」と言われると、話が面倒になるので、次第にそういう質問を親にしなくなるからです。
それで、静かになってよかったと思ったら、大間違い(笑)。
子供の質問をもとにした学力向上のチャンスが、どんどん少なくなっていくということだからです。
小学校低学年の場合は特に、子供が何かを聞いてきたら、お母さんがすぐにその場で答えてあげたり、一緒に楽しく考えてあげたりすることが大事です。
すると、子供はどんどん質問をするようになります。
この質問と応答のやりとりが、子供の学力を育てていきます。
子供の学力は、学校や塾で育つのではありません。
家庭での親子の対話の中で育つものなのです。
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「小学1年生の勉強の仕方が、その後の勉強のスタイルを作る」
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小学1年生で勉強することなど、たかが知れています。どの教材でも誰が教えても、大差ないものです。ですから、市販の教材でも通信の教材でも自由に選んで、身近なお母さんが教える形で十分に勉強できるのです。
しかし、大事なのは、このときの勉強の仕方です。勉強の中身そのものは誰でもできる(できなければならない)基本的なものなので、どういう教材をどう教えてもできるようになります。しかし、そのときの勉強の仕方は、実は千差万別なのです。
そして、このときの勉強の仕方が、その後の子供の勉強の仕方の土台になります。だから、この時期は、何をやるかとか何を身につけるかということよりも、どうやるかということが大事になってくるのです。
では、どうやればよいのでしょうか。
まず第一に大事なことは、明るく楽しくやることです。少学校低学年は、苦しい勉強をする時期ではありません。苦しい勉強の方がやりがいが出てくるのは、もっとずっとあとになってからです。小学1年生のときは、できるだけ楽にできるように、少しでも子供が困っていることがあったら、どんどん手助けしてあげることです。
これは、作文でも同じです。低学年の子に、無理に自分の力で書かせる必要はありまぜん。楽に書かせることが大事で、そのためにはいくらでも助け舟を出してあげることです。
しかし第二に、自分のペースで自主的にやる勉強スタイルを作ることです。そのためには、何をいつどういう順序でやるかということを、一つの流れとして作り、子供が自分の意思でその流れに乗るようにすることです。
よく、お母さんが、「次は、これ。それが終わったら、今度はこれ」と指示するような勉強の仕方をしている家庭が多いのですが、それでは、やらされる勉強になってしまいます。勉強の開始は、親が指示しないと始められないこともありますが、どういう順序でやっていくかということは、子供が自主的にやるような仕組みを作っておくことです。
(つづく)
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学力は、学校や塾でつくのではありません。
家庭の対話の中でつきます。
だから、作文力をつけるためには、予習シートなどをもとにした親子の事前の対話が第一です。
その親子の対話ができるようにするには、親が子供との対話を楽しむという姿勢を持つことです。
親はどんなに忙しいときでも、子供が何かを聞いてきたら、気持ちを切り換えて楽しく答えてあげることです。
小学1、2年生でよくできる子の場合、親が難しい問題集で勉強させてしまうことが多いと思います。
しかし、小学生のころの問題集の難しさというのは、実は意味のない難しさです。
それは、わざとわかりにくい遠回りの説明をしたり、ややこしい間違えやすい計算をしたりという難しさにすぎないからです。
そういう難しさは、年齢が上がれば自然に誰でもできるようになります。
難しい問題は、年齢に不相応な難しさを子供に要求することで、勉強嫌いの子を作っているだけです。
では、難しい問題はやる必要がないかというとそうではなく、それは受験期の半年か1年前から集中してやればいいのです。
受験期の難しい問題も、あまり意味のある難しさではありませんが、そういう難しい問題を解くことは、高学年の子供にとっては頭の体操のような面白さがあるからです。
そして、その難しさに意味があるとすれば、それは物事を緻密に厳密に考える習慣が身につくということだと思います。
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