曇りを取る教育とはどのようなものでしょうか。曇りを取り除くことによって、乾いた砂に水がしみ込むように、物事を吸収する能力が現れる、そういう方法があるのではないかということです。
中村天風は、チベットでの修行で人間な面でも心身の能力の面でも大きく成長しました。天風の獲得した能力は、右脳の活性化の結果とも言われていますが、科学的なことはまだわかっていません。その能力は例えば、一目見ただけで細部まですべてを覚えてしまう記憶力や、同時にいくつもの知的な作業を並行して取り組める集中力です。
ところが、この天風の例に見られるように、これまでの人間の知的な能力の開発には、修行という方法しかありませんでした。天風も、世界中の当時の最先端の科学、医学、哲学などで目指すものが得られないことがわかったあとに、チベットの師に出会ったのです。しかし、修行は、科学的な裏づけがないために宗教的な主観性と結びつきやすいという弱点を持っています。しかも、ほとんどの場合、その修行は一部の人にとってしか成果をもたらしません。
一方、宗教の主観性を排して科学的な方法で人間の能力を開発させようとするやり方は、往々にして、その能力の開発に人間性の向上が伴わないという弱点を持っています。例えば外部から何かの刺激を与えることによって能力を開発するというような方法は、生活の技術として利用するには有用ですが、そのことによって必ずしも人間性が向上するとは言えません。
人間の心身の能力を開発を考えるときには、この宗教の持つ非科学性と、科学の持つ非主体性をともに克服する方法を考える必要があります。その方法が教育的な方法です。
さて、人間の認識の曇りを取り除くということで、いろいろな分野の例が示唆を与えてくれます。
クローン羊のドリーの研究によると、羊の乳腺細胞にある遺伝情報は、その細胞が既に乳腺という固定した役割(曇り)を担っているために、そのままでは遺伝情報として抽出できないものでした。この乳腺細胞を万能な胚細胞に変化させたのは、その細胞を飢餓状態にするという方法でした。
ボース・アインシュタイン凝縮という現象において、原子の運動量が極端に低下すると、個々の原子の持つ波動が全体の一つの大きな波動に統合されるということが知られています。これは、極低温下で運動量が極端に低下したことによって、個々の原子の持つ個別性(曇り)が消えて全体に調和する性質を持った考えることができます。
人間の健康法に関して、断食小食療法というものがあります。昔は、病気になると栄養をつけて治すという時代もありました。しかし、現代は、過剰な栄養がむしろ人間の健康にとって阻害要因(曇り)となっている時代です。食事を減らすと健康になるというのが、この断食小食療法の原理です。これは、現代になって初めて出てきた理論ではなく、既に江戸時代の水野南北が提唱しています。ただし、食事や睡眠のように人間が日常生活の中で意識せずに行っていることは、意識的に行っていることに比べて変更が難しいので、こういう考えは世間ではまだ一般的ではないようです。ともあれ、この小食という健康法は、少ない栄養が身体のバランス回復に役立つということを示しています。
さて、これらの現象が示していることは、一種の飢餓状態が、その物事の初期化、健全化、万能化、調和化に役立っているのではないかということです。
知識や情報に関して考えてみると、豊富な読書環境が必要とされる時代や地域というのも確かにあります。しかし、初期のうちに、あまり読むものが多いと、それが情報に対する満腹状態を生み出し、同じものを繰り返し読むという読み方を阻害する要因になることもあるということです。幼児期にテレビ漬けにすると成長がかえって阻害されるというのも、このことに関係があります。
勉強において飢餓状態を作るということを単純に考えると、勉強の意欲を持たせるためには、勉強させない状態を作るということになります。これはやや無謀な考え方ですが、しかし例えば、大学1年生でいったん社会に出て勉強の必要性を感じさせ、それからもう一度学校で勉強をさせるというような仕組みはもっと考えられてもいいと思います。
たくさんの食事を早く食べるのではなく、少ない食事をよく噛んで食べるというのが、食事の吸収力を高める方法です。情報の吸収力を高めるためには、少量のものを何度も読むということが役に立ちます。これは、速読の多読とは正反対の教育観です。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
学習には臨界学習期があると言われています。例えば、日本人が英語のRとLの発音の区別を学べるのは、幼児期までです。ある時期を越えると、RとLの発音の区別をすることができなくなります。したがってほとんどの日本人はRとLの発音の区別ができません。しかしもちろん、それで困ることはあまりありません。言葉にはそれを伝えるときの文脈があるので、LiceとRiceを区別できなくて困るという場面はまずないからです。
ところで、この臨界期というのは、若いときにはできる能力があったのに、年をとったらできる能力がなくなったということではありません。年をとることによって、若いときにできていた能力に曇りがかかってできなくなったということなのです。若いときに何かを学ぶ手段となっていたものが、その手段であることに磨きをかけることによって、その手段によって学ぶ以外のものを学びにくくさせる障害になっていったという関係になっているのです。
RとLの発音に関して言えば、日本語でも人によってさまざまな「らりるれろ」の発音があります。男性の言う「らりるれろ」と女性の言う「らりるれろ」では当然音色が違います。幼児期には、それらの音色の違いをすべて聞き分ける能力があるのですが、それらを聞き分けていると能率がよくありません。同じ意味内容の言葉を違う音色として聞き分けるのは能率が悪いので、判断の能率をよくするためにRに近い「らりるれろ」もLに近い「らりるれろ」も同じと見なすという聞き方を選択するようになったのです。この選択するという手段に磨きがかかることが同時に、聞き分けることに対する曇りになっていったのです。これが臨界期の意味です。
このように考えると、複雑化と細分化で行き詰まりつつある現在の教育を打開する方法が見えてきます。未来の教育の方法論として求められるものは、曇りを前提としてさらに細分化を重ねていくような方法ではなく、その曇りを取り除くような方法なのです。
これまでの学校の役割は、人類が獲得した膨大な知識を順序よくかみ砕いて教えるということでした。例えば、足し算を学んだあとに掛け算を学ぶ、ひらがなを学んだあとに漢字を学ぶ、というような流れが作られていれば、学び方はスムーズになります。
もしこれを独学で学ぶとすると、足し算の前に掛け算を学ぼうとしてしまったり、ひらがなの前に漢字を学ぼうとしてしまったりすることも起こります。それは、能率が著しく悪いので挫折の可能性も高まるということです。
そこで、教育を担う制度として学校が必要になったのですが、この必要というのはあくまでもやむを得ず必要になったということです。その自覚がないと、勉強というのは習わないとできない、先生に教えてもらわないとできない、というような錯覚に陥ってしまいます。
湯川秀樹は、5、6歳のときの家庭教育で、論語の素読(そどく)をさせられました。これは、ひらがなを教えたあとに漢字を教えるというな段階的な方法ではなく、最終的に学んで欲しい原文をそのまま直接に教えるという乱暴な方法でした。しかし、そこには、途中の過程はともかく、とりあえず丸ごと把握してしまえば、結果は同じになるという発想があったのです。
山に登るのに、なだらかに迂回して登る軟弱なコースと、何しろ最短距離で登る直登(ちょくと)に近いコースとがあります。この直登コースの方法論が、丸ごと身につける学力なのです。
(つづく)
貝原益軒は、暗唱の方法として、100字の文章を100回というやり方を提唱しています。
しかし、現在はどこの家庭にもタイマーがあるので、「正」の字を100回書くよりもタイマーで10分間計った方が楽だと思い、言葉の森では、100字を10分間(回数にすると約30回)暗唱するというやり方にしています。
しかし、タイマーがない状態で暗唱することもあると思います。そのときの簡易カウンターの作り方を以前HPに載せました。
今回、自分で字数の制限のない暗唱に挑戦してみたとき、タイマーよりもこの簡易カウンターの方がやりやすいことがわかりました。
そこで、簡易カウンターの図を再掲します。チラシの紙などを使って作ってみてください。この折り方でやると、片道15回往復30回で、ちょうど100字の文章を往復の30回音読すると10分ほどの時間になります。回数で数えた方が早口で言うようになるので覚えやすいという効果もあります。
※もっとセンスのいい簡易カウンターを考えたら教えてください。