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「言葉の森作文ネットワーク」の理念と方法(その2) as/1277.html
森川林 2011/05/27 14:47 


 進歩と平和の両立ということを考えた場合、それを実現する鍵となるものは、制度ではなく、その制度を支えるひとりひとりの個人です。言い換えれば、個人の教育さえ充実していれば、制度の不備は人間の力によってカバーすることができます。

 江戸時代、当時の世界最大の都市である江戸の治安を守ったのは、公権力の警察機構構や防災機構ではありませんでした。幕藩体制は、多くの無駄を抱えてはいたものの、庶民の生活を守り発展させることに関しては、きわめて低コストで合理的な仕組みになっていたのです。それは、市民の民度が高く、自助努力によって治安や防災や教育の生活基盤が維持、運営されていたからです。



 そして、これが、未来の社会の姿なのです。

 どのように優れた制度であっても、また、どのように予算をかけた運営であっても、国民ひとりひとりの教育水準が高まらないかぎり、安定した社会は生まれません。反対に、国民の文化的水準さえ高ければ、制度も予算も、つまり、法律も警察もほとんど要らない形で豊かな社会生活を実現することができます。日本は、そのような社会を江戸時代に、世界最大の規模と、世界最高の水準で既に実現していました。私たちのすることは、その過去の経験をもう一度思い出すことだけなのです。

 理想の未来の社会を作ろうとするときに、欧米では、新しい理論を作り、それを議論をし、さまざまな試行錯誤を行わなければなりません。大多数の国民が合意できる安定した社会の設計図ができるまでの間には、多くの紆余曲折や対立があるはずです。

 しかし、日本は、理想の未来の社会を作るために、過去を思い出すだけで済むのです。世界のほかの国でも、そのような理想の社会の萌芽となる時代がいくつもあったはずです。しかし、日本以外の国では、主にその地理的な条件から、異民族の侵入によってしばしば歴史が中断され、その理想の社会を長期間にわたって継続させ発展させることができませんでした。そういう社会が現実に発展したのは日本だけだったのです。



 もちろん、古きよき時代は、その古さゆえの制約を持っていたからこそ、当時の歴史状況では世界に影響を与えることはできませんでした。江戸時代に日本に来た欧米人の多くが、その江戸社会の庶民の生活に、深い尊敬と羨望の念を抱きながらも、それが世界史の中では消滅する運命にあると感じていたのは、当時の日本文化がまだ欧米の文化を包み込むほどの普遍性を持っていなかったためです。

 しかし、今は違います。現代の日本人の生活のほとんどは、欧米の文化の枠の中で営まれています。だから、私たちがこれからすることは、今の生活を前提にして過去を思い出し、過去を基準にして今の生活を変える、ということなのです。そして、繰り返して言えば、これは、制度や予算の問題ではなく、ただ個人の教育の問題に帰着するのです。



 未来の世界の理想となる社会のモデルを提案する役割が、日本にはあります。しかし、そのためには、日本の教育を根本から変えていく必要があります。従来の日本の教育のままでは、未来の社会の建設という仕事を担うことはできません。

 その新しい教育の考え方は、大きく言えば、
1、受験の教育から、実力の教育へ
2、学校の教育から、家庭の教育へ
3、点数の教育から、文化の教育へ
4、競争の教育から、独立の教育へ
ということになると思います。(注1)

 2の「学校の教育から、家庭の教育へ」というのは、学校が不要だというのではなく、従来の「分業として成り立つサービスに、子供の教育を委託する」という発想から、「地域や家庭の文化として、教育を担う」という発想に切り換えるということです。

 これは、教育に限らず、今後の社会の基本的な考え方になります。例えば、治安、防災、医療、福祉、介護、環境整備などのサービスは、これまで、役所が管轄する仕事として考えられていたために、多くの無駄と非効率を生み出していました。

 しかし、その無駄と非効率を解決するために民間の効率的なサービスに期待するというのは、過去の古い資本主義的な枠内の考え方です。人間生活の土台となる教育、治安、防災、医療、福祉、介護、環境整備などを民間に委託すれば、その分だけGDPは上がります。しかし、もともとこれらの人間生活の土台は、役所のサービスにも民間サービスにも頼らずに、地域や家庭の文化の中で自然に最適な状態で生活の一部として解決されていたものなのです。そのモデルのひとつが、何度も述べるように江戸時代の文化でした。そして、江戸時代の民間サービスは、もっと高度な文化の創造の方に向けられていたのです。



 世界を変えるためには、個人がまず変わっていく必要があります。

 これから、私たちがすることは、新しい教育の理念にもとづいた新しい教育の文化を創り出していくことです。これは、小手先の改良ではなく、根本的な改革として行われる必要があります。

 だから、当然、教科の枠組みなども大きく変わります。現在の、国語、数学、英語、理科、社会、音楽、美術、家庭、体育という区分も大きく変化する可能性があります。

 教育の改革の中で、学年の分け方も大きく変わります。特に、これまで見過ごされがちだったために民間が先行していた幼児教育を、人間の自然の成長の中に正しく位置づけて行っていく必要があります。

 また、教育を、サービスとして学校や塾や先生に委託するという発想から、教育を文化として地域と家庭の生活の中で担っていくという発想に大きく切り換える必要があります。



 このように、教育におけるあらゆるものが変化する中で、その変化に伴う混乱をできるだけ少なく、しかも、教育のあり方を未来の理想に向かって進めるための羅針盤となるものがあります。

 それは、現在の教育と未来の教育の両方に属し、現在の教育と未来の教育の架け橋となるような教科で、それが、作文教育なのです。

 作文は、現在の教育において、国語、読解、作文、小論文の教科として、入試の重要科目のひとつとなっています。しかし同時に、作文は、未来の教育の要素も持っています。つまり、作文教育の中で、創造性、自律性、対話性、文化性もまた育てることができるのです。

 作文は、国語力もつく、読解力もつく、作文の受験にも役立つ、そして、未来の社会に必要な創造性や人間性を育てることにも役立つという特殊なk性格を持つ教科だったのです。



 しかし、そのように高度な作文教育を行うためには、従来の方法では不十分です。つまり、いい教材、いい先生、いい教室だけでは、新しい作文教育を担うには力不足なのです。

 新しい作文教育を行うためには、その教育の前提となる対話を欠かすことができません。それは、子供と先生との対話、子供と親との対話、親と先生との対話であるとともに、それぞれ、ほかの子供や親や先生との対話も含む、多様なつながりを持った対話となる必要があります。その対話を、日常的に持てる仕組みがあって初めて、作文教育は従来の教育の枠を超えた、現在と未来の教育の架け橋となる役割を持てるのです。

 そして、このように未来の教育の方向が明らかになってきた時期にちょうど合わせるかのように、facebook(フェイスブック)というプラットフォームが生まれていました。

 未来の社会を担う教育は、これまでは理論の中だけでしか語られていませんでした。しかし、今ようやくその現実の後ろ姿が見えてきました。これから、多くの試行錯誤があるはずですが、新しい教育は着実に進んでいくでしょう。

 アメリカが作ったfacebook(フェイスブック)というレールの上を、これから日本の教育文化というコンテンツが走ります。しかし、それは決して日本だけに限定された文化ではありません。世界のモデルとなるような、普遍化された日本の文化です。

 日本の力では、facebookのようなプラットフォームは作れなかったでしょう。それは、技術的に作れなかったのではなく、そういう発想がなかったからです。アメリカだからこそ、このような仕組みを現実のシステムとして創造することができました。

 同様に、世界のすべての文化には、その国やその民族でなければ創造できない独自の内容があります。だから、日本がこれから世界に貢献する道は、日本の文化を他の世界に押しつけることではありません。日本の中で、世界に通用する理想の社会を黙々と作ることなのです。

 そして、そのようにして日本がこれから作り出す新しい教育と新しい社会が、やがて、世界の人々が自分たちの歴史に合った未来の理想社会を考える際の貴重なモデルとなります。



 言葉の森は、未来の社会を支える柱を、未来の教育として作り出していく森です。言葉の森作文ネットワークに参加するみなさんの応援によって、これから、日本を守り、発展させ、世界の未来の理想のモデルとなる新しい社会と新しい教育を作るようにがんばっていきたいと思います。


(注1)
1、受験の教育から、実力の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1227
2、学校の教育から、家庭の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1228
3、点数の教育から、文化の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1229
4、競争の教育から、独立の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1250

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日本(39) 

記事 1276番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
「言葉の森作文ネットワーク」の理念と方法(その1) as/1276.html
森川林 2011/05/25 21:19 


 「言葉の森作文ネットワーク」とは、言葉の森のfacebookページの名前です。

 今回は、このページの理念と方法について説明していきます。

http://www.facebook.com/kotobanomori

 理念という根本的な話から始めますので、しばらく作文とは関係のないように見える話が続きますが、最終的には結びつきます。また、facebookの意義ということにも結びついていきます。

 自分で言うのも何ですが、すごくいい話になると思います。(ならなかったら困るけど)(^^ゞ




 世界は大きな曲がり角に差しかかっています。その曲がり角の兆候は、一足先に日本に訪れています。

 今、日本に住んでいる人の大きな関心は、日本を守ることにあると思います。その思いは、これから、世界中の人が、今後世界に起こるさまざまな問題を克服してそれぞれの世界を守ることを願う気持ちと共通しています。

 日本を守り発展させることが、同時に、世界を守り発展させることにつながるという時代に私たちは生きています。



 人類は、今、これまでとは質的に異なる新しい歴史時代に入ろうとしています。

 それは、生産力が、あらゆる貧困の条件を覆い尽くすほど飛躍的に発展した時代です。

 今日、世界の各国で失業が大きな問題となっているのは、見方を変えれば、多くの働き手が仕事に携わらなくても、世界の経済が回っていくほど人類全体の生産力が増しているということです。

 その豊かな生産力が、現実の生活で実感できないのは、ただ政治の工夫が不足しているからという理由だけによるものです。

 アインシュタインは、かつて、「なぜ、人間は原子力を発見することができたのに、それを管理することができないのか」という質問に答えて、「それは、政治が物理学よりも難しいからだ」と答えました。

 しかし、難しいということは、やり方によって解決できるということです。



 今日の政治の問題は、ひとことで言えば、民主主義が本当の意味で機能していないことにあります。

 先進国では、単純な多数決の投票制度によって、外見上の民主主義が実現されているような印象を受けますが、実はその外見の民主主義の印象を利用して、根本的な非民主主義体制が強固に維持されています。

 その仕組みはいくつもありますが、ひとつの具体例を挙げれば、例えば、マスメディアを資金力でねじまげ、情報操作によってゆがんだ世論を作り、その世論を自分に都合のよい方向に向けて社会をコントロールするというような方法です。これは、現代の先進国では、多かれ少なかれどこでも行われています。



 しかし、インターネットの発達は、このような形だけの民主主義から私たちが抜け出せる条件を作りつつあります。

 真の民主主義を実現する簡単な方法をひとつ挙げれば、例えば、選挙権を持つ人に教養試験を行い、その評価をもとにして投票数を配分するという方法があります。政治・経済・社会・文化の総合的な教養試験で得点の高かった人には10票、得点の低かった人には1票というような民主主義を行えば、すぐに民主主義は生きたものになって復活します。人間の知恵は、こういう仕組みを作る上で、必ずほとんどの人が合意できる枠組みを見つけることができるはずです。



 もちろん、もっといい方法もたくさんあると思います。大事なことは、どんな方法であれ、その実現可能性がだれの目にも見えるような気がするほど、現在考えられる人類の未来は楽観的だということです。膨大な生産力と、真の民主主義を反映した政治が実現すれば、今、地球上にあるほとんどの問題が解決するのは時間の問題だけになります。



 ところが、ここで新たに大きな問題として立ち現われるのが、人間というものの持つ本質的な性格です。

 人間は、理屈の上でどれほどよいことであっても、同じ状態が続くことに飽きる存在です。これが、人間でなく、牛や馬やニワトリであれば、このような問題は生まれません。また、人間でなく、ロボットであってももちろんこのような問題は生まれません。更に、もっと知的な動物であるイルカやクジラやゾウであっても、このような問題は生まれないのです。

 しかし、人間が、人類社会の恒久平和を実現するために、イルカのような動物にならなければならないとしたら、それは人間の意義を否定することになります。人間は、飽きるから進歩してきたのであり、イルカは飽きないから進歩してこなかったのです。



 人類の歴史には、ある地域のある期間に限定されたものであったとは言え、相対的に豊かで平和な社会が実現した時期がありました。そのときに、昔の人もやはり、進歩と平和の両立という問題を考えてきました。

 その解答のひとつとして生まれたのが、カースト制度だと思います。

 カースト制度は、社会の中で、「生まれつき」という議論の余地のない理由によって、大多数のイルカのような人生を歩む人と、ごく少数の人間のような人生を生きる人を階層化する仕組みです。この仕組みによって、進歩と平和を両立させることができると、かつて考えた人がいたのです。そして、この考えは、ダーウィンの進化論に影響を受けている欧米の知識人の間では、今でも、最も現実的な解決策だと考えられているように思います。更に言えば、これ以外の選択肢はほとんど考えられていないのです。

 カースト制度は、インドの一部の遅れた文化に属する制度なのではありません。人類の未来の社会に待ち受けている可能性なのです。



 しかし、今西錦司の棲み分け理論を、知識として知るというよりも実際の生活の中で自然に実践している日本人にとっては、欧米とは別の選択肢も容易に思い浮かびます。そして、日本人は、それを考えるだけでなく、現実の歴史の中で実践してきました。

 日本の歴史は、欧米の発想とは全く異なる別の解決策を現実の社会の中で驚くほど長期間にわたって実現してきました。それは、(1)社会の構成員のほとんどが知的に向上し成熟していて、(2)しかも、その多くがそれぞれに創造性を発揮して生きていく、という社会です。それが例えば、質的な違いはあるものの、縄文時代の数万年と、江戸時代の数百年だったと言ってもよいでしょう。

 日本は、世界の歴史の中でほとんど唯一と言ってもよいほど、独自の方法で進歩と平和を両立させる文化を作り出してきたのです。(つづく)

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日本(39) 

記事 1275番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
言霊論 as/1275.html
森川林 2011/05/24 21:04 


 言霊という感覚は、日本的なものです。欧米では、言霊に匹敵する言葉はあまりないように思います。

 欧米のディベートの文化では、言葉は意思を伝える手段ですが、言語は手段以上のものではなく、その手段をいかに有効に使うかということに考えが進みます。ディベートの前提は、自分が正しいと思うかどうかにかかわらず、ある立場に立って論じるということですが、この発想は、日本人には苦手です。

 国際舞台での交渉事は、テーブルの上でにっこり笑って握手をしながら、テーブルの下では相手の足を踏むというようなことが行われるようですが、こういうことを平気でできる日本人はあまりいません。日本人にとって、言葉とは心がこもってしまうものですから、自分の感情を抜きにして理屈の上だけで話をするというのは苦手なのです。



 そこには、日本語と日本人の特殊な事情が二つあるようです。



 第一は、日本語の音声です。日本語は、世界でも、日本とポリネシアにしか存在しないと言われる母音言語です。この母音言語の環境に6-8歳のころに置かれると、自然の音を言語と同じ左脳で処理する日本語脳が形成されます。ですから、日本で成長した日本人はほぼ全員日本語脳です。

 この日本語脳の特徴は、自然音だけでなく、感情も左脳で処理してしまうことです。

 例えば、「梅干し」という言葉を聞くと唾液が出てきます。日本語脳でない外国人との比較の調査はまだありませんが、この言葉によって情動が影響されるというのが日本人の特徴だと思います。

 だから、「さわやかな青空」という言葉を聞くと、その言葉だけで、気持ちもさわやかになってくるのです。

 心身統一合気道の創始者である藤平光一氏は、自分の脈拍を自由に速くしたり遅くしたりできたそうです。その秘密は、脈拍をコントロールしようとするのではなく、自分の気持ちをすごく焦っているときの気持ちにしたり、逆にすごくゆったりしたときの気持ちにしたりすることによって、結果的に脈拍をコントロールするという方法でした。しかし、それを聞いて納得した海外の学者が同じことをやろうとしても、だれでもできなかったそうです。

 藤平氏は、合気道の達人でしたから、脈拍を自由にコントロールするレベルまでできましたが、似たようなことを多くの日本人がやっているように思います。そのときに使われているのが、日本語と日本語脳の組み合わせが生み出す言葉の情動性なのです。



 さて、日本語脳というのは、主に音声の面での特徴です。ところが、第二に、日本語には音声だけでなく、文字においても情動性を喚起する力があるようです。

 日本語には漢字とひらがな(カタカナ)がありますが、漢字を処理する脳の部位と、ひらがな(カタカナ)を処理する脳の部位が違うことがわかっています。漢字は、イメージや音楽と同じ部位で処理されていて、ひらがなやカタカナの処理される部位とは異なっています。

 絵は、言葉に比べると、情動に影響を及ぼす度合い高く、言葉だけで聞く(あるいは見る)よりも、画像の助けを借りた方が理解が早くなることが知られています。言葉の持つ記号性の更に純化したものが数字だとすると、情動に対する影響力という点で、画像>言語>数字という関係が成り立つように思います。

 こう考えると、漢字を画像的な象形文字として認識する日本語は、表音文字だけで記述されるアルファベットよりも、人間の気持ちを動かしやすいのだと思います。

 では、漢字だけで成り立つ中国語はどうかというと、中国語ではすべての文字が画像になっています。それに対して、日本語は、画像としての漢字と漢字の間に、その漢字の関係を表す助詞や助動詞がひらがなとしてはさまっています。このひらがなが、動きの役割を果たします。

 例えば、「感謝」という言葉だけを見ると、感謝のイメージは画像として浮かんでくるような気がします。しかし、ここに、「感謝する」「感謝します」「感謝したい」というひらがなの助動詞がつくと、このイメージが動きをもって心に迫ってくるような感じがすると思います。

 つまり、日本語は、表意文字と表音文字の組み合わせによって、先ほどの、画像>言語>数字の関係に、更に、動画を付け加えた関係になっているようなのです。(動画>画像>言語>数字)



 日本語は、音声の面からも、文字の面からも、単なる伝達手段としての言語という無機的なものではなく、人間の心に影響を及ぼす生命力を持ったものになっています。しかし、それは、日本語と日本語脳が組み合わさったときにそうなるのです。そして、この心への影響というものは、たぶん、人間の潜在意識により深く影響を及ぼすものです。これが、日本語において言霊という感覚が成立しやすい条件になっているのだと思います。



 もちろん、日本語に限らず、言語にはもともと情動に影響を及ぼす面があります。アルファベットにも、当然そのような言霊の力はあるはずですが、それを感じとるためには、感受性を高める必要があります。

 しかし、日本語の場合は、普通の人でもすぐに言語の情動性を感じ取れるような特徴があり、それが個人の意識だけでなく、日本人という集団の集合意識にも影響を及ぼす面があるのではないかと思われるのです。

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日本語脳(15) 

記事 1274番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
エントリーシートの書き方 as/1274.html
森川林 2011/05/23 19:24 


 エントリーシートや志望理由書の書き方にはコツがあります。



 小中学生の場合、志望理由書は本人が書くことが原則になっていますが、本人任せでは書けません。親がアドバイスをして親子の合作で書いていく必要があります。



 手書きで書く場合は、最初に、エントリーシートの枠に1行普通に書いてみて、その字数を数えます。そして、手書きで書く字数と行数に合わせて、パソコンの字数行数のセットをし、パソコンで内容を修正しながら書いていきます。パソコンで完成したものを、手書きできれいに清書するという書き方です。



 文章を書くときは、構成をわかりやすく書くのが大事です。志望理由書で自分のアピールできる点を書く場合でも、論点をいくつかに整理して、それぞれの論点について同じ長さぐらいの字数配分で書いていきます。

 ある段落は長すぎ、ある段落は短すぎという書き方にならないように、全体の目配りをしながら書いていきましょう。



 エントリーシートに書く内容は、自分のアピールできる点です。できるだけ具体的な固有名詞や数字を入れて、裏付けのはっきりしたものを書きます。例えば、「本を読むのが好きです」と書くよりも、「毎週2、3冊は必ず読みます」などと書いた方が説得力があります。何かをがんばって続けた場合でも、「○年○ヶ月続けた」と書きます。ほかに、「○人集まった」とか、「○円の業績があった」のように、できるだけ数字がわかるように書いていきます。



 内容は、全体に明るくなるように心がけます。苦しい経験も人間を成長させますが、苦しいことをのりこえたという明るい点を中心に書いていきます。

 また、他人を批判するような内容は、文章の力を弱くします。批判はできるだけ避けて、物事のプラスの面を中心に書いていきましょう。



 エントリーシートでアピールするのは、自分が挑戦したことですが、大学生の場合、4年間をふりかえってみると、人に自慢できるような挑戦は意外と少ないものです。

 アルバイトや部活などはだれでもそれなりにがんばっていますが、だれが書いてもあまり大きな差が出ません。それよりも、むしろ、勉強面でがんばったという話は、意外と好感を持たれます。

 しかし、その勉強も、資格試験をとるためにがんばったという実利的なものよりも、研究や調査で、特に何かの見返りを期待するわけではなくがんばったというようなものの方が印象に残ります。



 アピールできる点があまりない場合は、説明風に書くと字数が埋まりません。その場合は、そのときのエピソードを描写的に書いていくといいでしょう。



 書き終えたあと、自分が書いたものを必ず他人にも読んでもらい、読みにくいところを指摘してもらいます。家族でも友達でもかまいません。他人に読んでもらうことによって、自分では気がつかないことがわかります。

 高校生や大学生になると、自分で書いて読み返してそのまま提出という形になりやすいのですが、提出する前に必ずほかの人に読んでもらいましょう。



 言葉の森の「質問の広場」という掲示板に、いろいろな人が書いた志望理由書と添削例が載っています。そのようなサンプルを参考にすると書きやすいでしょう。

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受験作文小論文(89) 

記事 1273番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
褒めるだけの指導でいいんですか as/1273.html
森川林 2011/05/20 18:54 


 言葉の森の保護者の方から、よく質問や相談があります。

 その中で、ときどき出てくるのが、「先生が褒めてばかりいるのですが、これでいいんですか」というものです。

 その答えは、決まって、「それでいいのです」です。



その理由1.直す指導では、長続きしないからです。



 小学校低中学年のころは、褒める指導よりも直す指導の方がしやすい時期です。特に、低学年になればなるほど、直すことが多くなってきます。

 しかし、その場合の「直すこと」の大部分は、直さずにそのまま放っておいても学年が上がれば自然に直るものです。なぜ自然に直るかというと、学年が上がり文章を読む量が増えてくると、自分で直そうと思わなくても自然に正しい書き方が身についてくるからです。

 例えば、小学校低学年でよくある「わとは、おとをの区別」「会話の改行」などは、最初はみんなできません。できなくて当然です。日常の話し言葉でそういう区別がないからです。

 しかし、文章を読む機会が増えてくると、自然にそういう区別があることがわかるようになります。そして、大部分の子は、だれに教わらなくても年齢が上がるにつれ自然に正しい書き方になっていきます。

 正しい書き方を教える場合でも、小1のころに10回言わなければわからなかったことが、小3では1回でわかります。読む量の土台ができていれば、説明はすんなり入るのです。

 ところが、多くの真面目なお母さんや先生は、小1のころに10回説明して直そうとしてしまいます。

 その結果、どういうことが起きるかというと、まず、子供は書くことが苦手になります。お母さんは、年中子供に注意するようになります。

 この状態にがんばって耐えた子は、小学5年生ぐらいになり自我が確立してくると、もう親の言うことを聞かなくなります。小さいころに教え込みすぎた子は、必ずバランスをとるために大きくなって反発するようになるのです。

 高学年のいちばん重要な時期に親の言うことを聞かなくなるので、親は子供の勉強を塾に丸投げするようになります。

 高学年になっても、親が楽しく子供の勉強を見てあげられるようになるためには、低学年のときにできるだけのんびりと楽しく褒めながら教えていくことが大切なのです。



理由2.褒める指導で続けられるのは、指導のカリキュラムがしっかりしているからです。



 ときどき、褒める指導だけで作文を書かせるのなら簡単だから、家庭でもできるという人がいます。

 ところが、家庭で親が子供に作文を教えるようになると、すぐに勉強が行きづまります。低学年のときなら、それでも無理に続けることはできかもしれません。しかし、小学校3、4年生になっても作文の勉強を家庭で行うというのは、たぶんどの家庭でもほとんどできないと思います。

 作文の通信教育講座の中には、楽しそうな教材だから家庭でもできるとうたっているところがありますが、楽しくできるのは、国語のクイズのような易しいレベルの間までです。本格的に作文を上手に書くレベルになると、教材の楽しさだけで勉強することはできません。



 言葉の森の指導が、褒めること中心でありながら上達していくのは、指導の枠組みが上達するようにできているからです。

 他のほとんどの作文教室では、小学校の間だけとか、せいぜい中学生の間までの指導カリキュラムですが、言葉の森は高校3年生の大学入試の小論文までの長期的なカリキュラムで指導をしています。

 しかも、高3の小論文入試では、最難関校に合格できるだけの指導を行っています。これは、高校生の生徒が増えすぎても困るので宣伝はしていませんが、言葉の森の大学入試小論文指導は、現在、どの予備校よりもレベルが高くわかりやすい指導をしていると思っています。それは、受験作文小論文のページの開設を見るとわかります。ほかの予備校で、このように理路整然と書き方を説明しているところはないと思います。



 言葉の森の講師が、子供たちをのんびり褒めているだけのように見えるのは、しっかりしたカリキュラムで指導しているからなのです。



理由3.作文の上達には、時間がかかるからです。



 ところで、作文の上達には時間がかかります。

 数学や英語であれば、夏休みの集中学習で一挙に成績を上げて得意教科にするというようなこともできないわけではありません。これは、それなりに大変ですが、やり方さえ守ればだれでもできます。

 ところが、作文の勉強は、短期間の集中学習で上手にさせることはできません。

 もちろん、言葉の森の体験学習の最初のころは、目覚ましく上達するということはあります。しかし、その後の進歩は、時間のかかるものなのです。

 他の教科の勉強は、単元が進んだり、テストの点数が返ってきたりするので、勉強が進歩している感じがします。しかし、作文の場合は、毎回同じような作文を書いていて、それが題材によってはかえって下手になったように見えることもあるのです。



 このときに、親がどう対応していくかということが大事です。

 ひとつには、作文の勉強の進歩は時間のかかるもので、気長に読む勉強を続けながら褒めていると、忘れたころに上達していたことがわかるものだと考えることです。

 この場合に、重要なのは、褒めることとともに、読む勉強を続けることです。それは、昔は長文の音読ということでやっていましたが、今は、長文の暗唱、又は、問題集読書、又は、普通の読書です。

 家庭で行う自習の仕方は、今度わかりやすく整理したものをお送りする予定ですが、当面は、最低限、毎日の読書さえしっかりできていれば、それが読む勉強になると考えておいてください。

 「忘れたころに、上達していたとわかる」というのは、自動採点ソフト森リンの点数グラフの推移からも言えます。どの生徒も、年間を通して数ポイント進歩しているだけです。決して、1ヶ月や2ヶ月で目に見える進歩があるという勉強ではないのです。

 高校2、3年生で大学入試のために新たに作文の勉強を始めるような生徒は、勉強に対する意識がかなり高いはずですが、そういう生徒でも、自分なりに上達が実感できるのは1年ぐらいたってからです。勉強に対する意識がそこまで高くない小中学生の生徒については、上達にはもっと時間がかかるというのが普通なのです。



 上達していないように見える時期は、作文の勉強をしているのでなく、その子のその時代の思い出となる作文の記録を残しているのだというぐらいにのんびりと考えておくことです。毎回同じような作文を書いていたとしても、それを進歩がないと考えるのではなく、記念の作文がたくさんたまっていくというふうに考えれば、親も子も負担がなくなります。

 そうして、ふと気がついたときに、「いつの間にか、ずいぶん上手になっていたね」ということになるのです。



理由4.子供の意欲を活性化させる大きな要素は、家庭の対話だからです。



 勉強は、意欲的に取り組んでいるかそうでないかによって、同じ時間をかけても上達の度合いがかなり違ってきます。

 子供たちがいちばん意欲をもって勉強できるのは、受験に作文試験があるときです。実際に、受験前の子供たちは、かなり難しい課題でもがんばって取り組んでくるので、この期間はみんな作文力が向上します。

 しかし、受験という差し迫った目標がないときは、作文の勉強というものは、きわめて意欲化しにくい勉強なのです。その理由のひとつは、はっきりした点数がつかないからです。

 この意味で、小学校高学年以上の生徒は、できるだけパソコンで作文を書き、毎週森リンの点数を勉強の目標にしていくといいと思います。

 言葉の森の通学教室では、小学校5年生以上の生徒はほぼ全員パソコンで作文を書いています。子供たちの適応力は高いので、家庭で毎日10分でもブラインドタッチ(タッチタイピング)の練習をすれば、数週間で、手で書くよりも速く楽にパソコンで書けるようになります。(ブラインドタッチは、ソフトなどで練習する必要はなく、自分の好きな歌を歌いながらその歌詞を打つ練習をしていくという形でやるのがいいと思います)



 ところで、森リンの点数で意欲を持たせるというのと、もうひとつ異なるアプローチが、対話によって意欲を持たせるという方法です。もちろん、作文の力が上達してくると、いい作品を書き上げること自体が、苦しいながらも楽しいというレベルにまでなります。しかし、そこまで行くのは、よほど上手になったあとです。ほとんどの子は、書くことが苦しいという気持ちがほとんどで、それでもがんばって勉強していると思います。

 ここで大事なのが対話です。

 他の教科の勉強では、特に予習などをしていなくても、教材を見て先生の説明を聞けばそこから勉強をスタートさせることができます。しかし、作文の勉強はそうではありません。

 もちろん、予習をしていなくても作文の勉強を始めることはできます。しかし、予習をしている生徒と比べると、勉強に取り組む意欲の差は歴然としています。

 私もしばらく前までは、教える側の工夫で意欲を持たせることができると考えていました。しかし、どんなに面白く意欲化できるように教えても、作文を書きだした途端にすぐに意欲がしぼんでしまう子がいます。一方、どんなときでも、書きだしから書き終わりまでがんばる子がいます。

 その差は、作文を書くまでの家庭での事前の対話と、作文が返却されたあとの家庭での対話だったのです。

 いつでも意欲的に取り組む子は、家庭でお父さんやお母さんと、次の週の課題について話をしています。子供が、自分から進んで、両親に似た話を取材するというケースが多いと思いますが、その取材に対して、お父さんやお母さんが対話を楽しむ形で熱心に答えているのです。

 この対話によって、子供の思考力が活性化します。また、親が子供に知的な話をじっくりできる機会が生まれます。他の教科の勉強は、子供が教材を見て自力で進めていくのが理想ですが、作文の勉強はその反対で、親子が課題についてたっぷり対話をする中で進めていくのが理想なのです。

 このように、作文の課題について事前に両親と対話している子は、作文を書いているときに、作文用紙の上でやはり両親と対話をしながら書いているのだと思います。そして、そのようにして書いた作文が返却されたとき、両親がその作文の返却を楽しみに待っているとしたら、意欲的にならない方がおかしいのです。



 この作文の勉強における対話の意義ということを、言葉の森では今後、どの家庭でも実行しやすい形で提案していく予定です。

 簡単に言うと、毎日の家庭での対話のメニューを作ることです。 

 また、家庭での親子の対話だけでは、慣れないうちは話題が息づまることもあるので、その対話をfacebookの活用でバックアップすることを考えています。


まとめ.褒める指導と対話を結びつける。


 作文の勉強は、真面目に直す指導として行うこともできます。

 しかし、その結果は、長続きせず、作文が苦手になり、親が年中怒るようになり、高学年になって親子の対話ができなくなるということにつながります。

 作文の勉強は、特に低学年のうちは、そのように生真面目に取り組んではいけないのです。



 一方、作文の勉強を褒めるだけで行うことは、その褒める指導の背後に明確な方法論がなければ、やはり、長続きさせることはできません。

 褒める指導は、直されて苦手になるよりもずっといいのですが、やはり褒めるだけでは限界があるのです。



 いちばんいいのは、褒める指導を基本にしながら、

(1)明確なカリキュラムに基づいて指導する(言葉の森の方法です)。

(2)親が進歩を気長に見てあげる。

(3)その一方で、読む勉強としての自習を続け、

(4)高学年からはパソコン入力で点数も目標にする。

(5)そして、家庭での事前の対話と事後の対話で意欲を持たせる。

という方法を組み合わせることです。



 この中で、これから最も力を入れていく分野は、家庭での対話です。

 言葉の森の指導も、家庭での対話を支えることを今後の重点にしていきたいと思っています。

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