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アジアの人々の大多数は、平和と繁栄を願っています。
だから、それを実現すればいいだけです。
なぜアメリカを入れないかというと、アメリカがアジアの小競り合いを望んでいるかどうかは別にして、アジアの未来はアジア人が決めるものだからです。
今ある紛争は、その紛争が起こった前の状態に戻せば済むことです。
それでもなお議論が残るとすれば、それはじゃんけんで決めてもいいのです。
じゃんけんでは不公平だと言うなら、アジア諸国の投票でハンディをつけたじゃんけんにすればいいのです。
そういう平和な共存ができる国々こそ、将来の新国際連合の土台です。
子供でも考えつきそうなこういう考えを実現できないのは、ただ勇気がないからだけです。
今日は、久しぶりの少し曇り空。
さすがに日が出ていないと風の冷たさを感じます。
しかし、この冷たい風の中で、植物たちは春の出番を準備しているのです。
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日本文化を世界に広げていくためには、どうしたらいいのでしょうか。
日本の文化は、言葉として表されていないものが多いので、その外見だけを文化の中身だと勘違いしてしまうこともよくあります。
例えば、お寿司。
素材を生かすというのは、ひとつの側面です。
しかし、その背後に、一見手間をかけていないように見せる思いやりの精神があります。
日本では、相手に負担をかけないように、「つまらないものですが」とへりくだる文化があるのです。
しかし、更にその背後に、寿司を握ることを手の技として限りなく深く追求していくという文化があります。
これが、お寿司という形あるものの裏にある見えない文化です。
この文化を世界に広げるには、形あるものを伝えるだけでは不十分です。
しかし、簡単に言葉にしてしまうとかえって根の浅い理解になってしまいます。
日本の文化を、深い本質でとらえ、しかもそれを言葉にするのではなく、言葉以外の形にすることがこれから必要になってくるのです。
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自分が日本文化の中に生きているので、これまで空気や水のように感じていましたが、それを言葉として把握し直さなければならないと思うようになりました。
というのは、日本文化的でない日本の子供たち(一部大人も)が増えているような気がするからです。
しかし、それを単に言葉で説明しても、相手には伝わりません。
日本文化を言葉でないものとして伝えるために、言葉による把握が必要なのではないかと思っています。
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子育ての目指す目標のイメージは、男は度胸、女は愛嬌ではないかと思うようになりました。
別の言葉で言えば、男は日本男児、女は大和撫子です。
わかりやすく言えば、男は格好いいこと、女はかわいいこと(外見ではなくね)。
そのそれぞれの勇気と美に、共通の知性と愛が加わるのが、理想の人間像ではないかと思うようになりました。
今は、知性の教育だけが突出している感がありますが、本当はバランスのとれた人間になることが大事なのだと思います。
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タブレットPCやネットワークの利用により、勉強はますます楽しくできるものになっています。
しかし、子供たちの学力がつくのは、教えてもらっているときではありません。
いい教材、いい先生というのは、ひとつの条件ですが、最も大事なのは子供がひとりで考えて理解して納得したときです。
だから、見た目に華やかな授業の場面ではなく、静かにひとりで考えているときに、本当の学力がついています。
勉強の基本は、家庭での学習です。
しかし、家庭の学習は、その習慣が軌道に乗っていないと、なかなか続けられません。
そこで、その家庭での学習に目標を作るために、自習検定を行うことにしました。
教科は、漢字、英語、算数数学、長文です。
https://www.mori7.net/jks/
12月4週に、言葉の森の生徒の希望者を対象に検定試験を行い、その後、様子を見て、一般の人も参加できるようにしたいと思っています。
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ある教育サイトに、「物語文の心情を読み取るのが苦手」という相談がありました。その相談に対する回答は、「易しい問題は近くに答えがあり、難しい問題は遠くに答えがある」というような内容でした。
これは、確かにそのとおりです。こういう問題作成の仕組みを知っていると、対応の仕方も工夫できます。例えば、難しい問題を出す学校であれば、答えはそんなに近くにはないはずだという見通しが立てられるのです。
しかし、このテクニックで差がつくのはわずかです。根本的な差は、物語文の心情を読み取れるかどうかです。
そのコツは、その物語を没頭して読むことです。自分がその物語のひとりの登場人物として、物語の世界を経験しているかのように読むと、周囲の景色やほかの人の心情が手に取るにようにわかってきます。
こういう読み方をしていると、問題を見たときに、元の問題文と照らし合わせなくても、自分の経験をふりかえることで答えの見当をつけられます。問題文に戻るのは、その見当を確認するためです。その確認をしやすくするために、問題文にはあらかじめ傍線を引いて読んでおくのです。(傍線を引くのは、大事なところではなく、自分がピンと来たところです。)
では、物語文に没頭する読み方は、どのようにして身につくのでしょうか。それは、比較的易しい楽しい本を熱中して読む経験を重ねることによってです。
だから、読書は、難しい本を精読するとともに(精読とは繰り返し読むことです)、易しい本を多読するという両方の読み方が必要になってきます。
小学校時代は、国語の問題集を解くような勉強をするよりも、好きな本をたくさん読んでいた方が国語の実力がつくのです。
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