思考力や創造性の評価で最も役立つのは小論文だと思います。
しかし、小論文は採点に手間がかかることと、客観性が必ずしも保証されないことから、本格的に利用しているところはありません。
小論文の本格的な利用とは、複数のテーマで1200字以上の小論文を何本か書くような形の利用です。
字数が短い小論文であったり、1つのテーマで1本だけ書くような形では、誤差の方が大きくなります。特に、傾向が予測されるような小論文の場合は、準備の有無がその小論文の出来を左右するので、小論文試験と言っても本当の実力がどれぐらい正しく評価されるかは疑問です。
この小論文試験の評価に活用できるのが、深層学習です。
まず、同じテーマで複数の人が小論文を書いた場合、そのテーマに関連性の深い文章というものが評価されます。
つまり、みんなが同じような形で論じている傾向に近いものほど、テーマに深く関連していると考えられるのです。
しかし、みんなと同じ傾向だということは、それだけ平凡だということです。最も平凡で最もありきたりのものが高い評価を受けることになってしまいます。
そこでもう一つの評価は、みんなと異なっている度合いを評価するということです。
大きな論旨は、みんなが論じているものと同じだが、その中身がユニークで幅が広いという小論文が、論理性と創造性を兼ね備えた文章だと考えられるからです。
これは、人間が文章を読むときの感覚と似ています。
上手な文章というものは、書き出しと結びは一つの輪のように収斂していて、テーマと結びついていますが、その途中の展開がユニークで幅広く独創的なのです。
ただし、以上のような評価を、自然に書かれた文章だけで評価するのは、深層学習には若干荷が重いと思います。
そこで、小論文試験の場合は、書く文章にある方向性を持たせるようにするのです。
こうすれば、人間が評価するのとかなり近い評価を機械採点でできるようになると思います。
ここでよく誤解されるのは、機械が価値を評価しているのではないということです。
価値を評価できるのは人間だけです。それは、生きた人間は、希望や願望や欲望といった未来に目指すものを持っているからです。
機械がそのような価値観を持つようになるかもしれないという人がいますが、それは単に言葉の遊びです。生きているものは希望を持ち、生きていないものは希望というものがそもそもないから生きていないのです。
機械による評価が容易にできるようになれば、学校教育の中で文章を書く機会をもっと増えます。
知識を詰め込む勉強だけでなく、その知識を生かす勉強をすれば、勉強はもっと楽しくなってくると思います。
参考までに、森リンという自動採点ソフトが評価した森リン大賞のリストです。(この森リンは、まだ深層学習を使っていません)
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
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知識は、inputするだけでなく、outputして初めて意味のあるものになるのですね。
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勉強は、自分で考えたり、作ったり、発表したりするところが面白いのです。
正解に到達するだけなら機械でもできます。
機械ではできない自分らしい創造をするのが人間らしい勉強です。
社会に出て活躍する人も、そういう自分なりの工夫ができる人で、その傾向はこれからますます強まってくると思います。
下記は、思考国算講座の中で、みんなの作品を紹介している場面の一部です。
こういう自分らしい発表が、これからもっと広がっていくといいと思います。
コンクールなどでは、脚光を浴びるのはごく一部の入賞者だけです。
しかし、家庭で親子だけでやっていたのでは、ちょっと張り合いがありません。
だから、6、7人の少人数のグループで全員が発表できるような場があるといいと思っているのです。
https://www.youtube.com/watch?v=KqwScBzJprQ
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昔の学校は60人学級ぐらいでしたが、それでもみんなそれが普通だと思って勉強していました。
しかし、それはみんなの生活環境が同じようなものだったから成り立っていたのだと思います。
今の社会では、日常的な勉強の場は6、7人がちょうどいいのではないかと思います。
そして、必要に応じていろいろな人数で集団活動が組めるようにするといいのです。
オンラインの勉強というと、個人でできるとか、マンツーマンでできるとかいうものが多いのですが、子供たちが喜ぶのは、少人数のグループでやるものです。
人口密度の高いところでは、近所の子供たちが集まって家庭学習の延長でやっていくような勉強です。
それをオンラインで高度な勉強としてやっていきたいと思っています。
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勉強というと、何かいろいろなことを教えられて、それをしっかり覚えておき、聞かれたら正しく答えられるようになることが目標のように考えられがちですが、本来はそういうものではありません。
既に答えのわかっていることを、その答え方を身につけるために学ぶことは、教育の準備であって、それが教育の目標なのではありません。
目標は、それらのいろいろな知識の土台の上に、自分なりの創造、発明や発見や発表をすることで、それこそが人間がもともと持っている喜びに根ざした教育になります。
勉強ができるようになることは、そういう喜びのための準備であって、本当の喜びはその先の創造にあるのです。
2020年から小学生のプログラミング教育が必修になりますが、これも、子供たちが自分で創意工夫して自分で何かを作ることを早めの目標にする必要があります。
プログラミングを覚えること自体が勉強のようになり、その知識を覚えたかどうかで○×をつけられるようになると、ここでもまたできない子をどうするかという不毛な問題が出てきます。
子供たちの遊びで、その遊びができない子をできるようにするという問題はほとんどありません。できない子も参加できるように、遊びの方を柔軟に工夫できるからです。
教育だけは、そういう柔軟性がなく、かたくなに正解というゴールの一本道に子供を追い込もうとしているように見えます。
本当は、正解はたくさんあって、誰でもその正解に行けるように工夫していくことできるのです。
遠い正解も、近い正解もあり、誰もが自分の興味と関心に応じて、自分なりの正解に行けるようにするのが教育の工夫するところなのです。
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中学生たちの夏休み明けのテストの結果を聞いて、中学の教育が何かおかしいような気がしました。
もしかしたら、先生たちは、生徒に点数の差をつけることを目的にしてテストをしているのではないかと思ったのです。
勉強ができる子とできない子に分かれるのは、評価そのものが目的になっているからです。
本当は、誰もが自分の興味と関心と適性に応じて自分なりにできるようになり、それを生活や遊びや創造に生かしていくものなのです。
教育は、点数の差をつけることを目的にするのではなく、誰もができるようになることを目的にすべきだと思います。
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