夏休み中の1ヶ月以上の休会については、次のように扱っています。
1、在籍したままの休会
・受講料の引き落としはあります。
・山のたよりや言葉の森新聞は毎週送られます。
・7月、9月など別の月に振替で授業を受けられます。(事情によっては学期をまたいだ10月以降の振替もできます)
・9.1週の進級試験に合格すれば進級できます(ただし各月の課題を最低1回は提出していることが条件になります)
2、在籍をしない休会
・受講料の引き落としはありません。
・山のたよりや言葉の森新聞は送られません。
・休会中の授業の振替はありません。
・1ヶ月に1回も提出しない月が出るので、次の10-12月の学期はいったん級が下がったところから開始します。
(ただし、10-12月の学期に進級すれば、次の1-3月の学期は通常の進度に戻ります)
夏休みは、電話先の臨時変更や、休んだ授業の振替などが随時できるので、できるだけ工夫して授業を継続していかれることをおすすめします。
子供にとっても、忙しい中にも関わらず何とか続けたということが、その後の勉強の意欲につながるからです。
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言葉の森の受験コースは、志望校の過去問に合わせた課題を中心に、受験日の5ヶ月前から始めることができます。
過去問に沿った練習を何回か行ったあと、どのような課題にも対応できるように幅広くいろいろな課題で書く練習をしていきます。
受験コースに入る前の普通の課題でも、小学校5年生以上の感想文課題は、受験コースと同じスタイルの学習になっています。ですから、普段の課題ができていれば、そのまま受験コースの課題の実力もついているということになります。
最近の課題の傾向として、題名課題から文章課題へ、文章課題から複数文章課題へという流れがあります。題名課題の場合は、ある程度の準備ができますが、複数文章課題になると、事前の準備というものはなかなかできません。課題が難しくなると、やはりその子の実力が物を言います。
実力をつけるためには、練習を重ねるしかありません。言葉の森の指導法は、正攻法で、たくさん書く中で、いい実例、いい表現、いい意見を増やしていくという方法です。
作文は、書き方のコツのような本をいくら読んでも力がつきません。実際に書くのがいちばんで、自分の書いたものだけが、試験の本番でも役に立ちます。
いい材料を増やしていくには、家族の対話が大事です。お父さんやお母さんの体験を聞いていると、そこから自分の体験も引き出されてきます。
言葉の森では、生徒が課題を読んだあと、先生が事前に書き方を説明します。生徒が自分ですべて考えて書く必要はありません。先生の説明を聞いて、その説明に沿って書ける子は実力があります。
試験の本番では、ほとんどの子が字数いっぱいまで、それまでの練習のいちばんいいところを出すような形で書いてきます。
ただし、一般の教科の試験と違って、作文の試験の場合は、課題による出来不出来がかなりあるのも事実です。そのときに、これまでの蓄積が物を言います。
言葉の森を何年も続けてきた子は、難しい課題が出ても、「これまで長年書いてきたのだから、自分に書けないはずがない」という気持ちを持てるので、実力を発揮できるのだと思います。
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「未来予測コルマンインデックスで見えた 日本と経済はこうなる」(高島康司著)を見ると、今後、資本主義経済に代わるものとして、自給自足経済が登場するということが書かれています。
これまでは、孤立した個人が、個人の利益のために競争し、それが全体の調和につながるという考えが社会を形作ってきました。この考え方の裏づけとなったものが、生存競争による食物連鎖や進化論という考え方です。
世界が発展する時期には、そのような競争による淘汰が社会の主要な面を代表していました。しかし、社会の発展が一段落し安定してくると、今西錦司の説くような棲み分けという仕組みが、社会の主要な面を代表するようになります。今は、その過渡期なのだと思います。
社会を人間の意志でコントロールしようとする社会主義経済は、資本主義の発展速度に追いつけなかったために破綻しました。
しかし、今逆に、新しい形の計画経済が可能になりつつあります。それは、例えば、商品の売買を現金ではなくカードですべて決済するようなやり方にすれば、物やお金のやりとりが、データの流れとして把握されるようになります。
そのような大きな計画経済が生まれつつある一方で、物々交換のような売買に基づいたローカルな自給自足経済もまた動き出してきているように思えます
これまでの売り手は、自分が利益を上げて得をするために物を売っていました。今後は、相手に喜んでもらうために物を売るという面が強く出てきます。いわば、学園祭における模擬店のようなものが、商品売買の中心となります。
このような社会では、物を売る喜びは、働くことへの喜びに基づいています。利益を上げる動機だけではなく、相手の喜ぶ顔を見たいということが物を売る動機となります。また、物を買う側についても、自分が得をするために買うだけではなく、相手を喜ばせるために買うという一種のコミュニケーションン的な購入が中心になってきます。
この自給自足経済の中では、教育の形も変化します。今までの教育は、生徒と保護者という買い手に対して、学校と先生という売り手が対応するという形でした。
確かに、高校や大学のような高等教育の分野は、教育内容に精通した専業の教師が必要でしょう。しかし、小中学校の教育の大部分は、教科の教育よりも人間教育と考えられます。とすれば、勉強の教え方が上手な先生というよりも、自分の子供をしつけの面や情緒の面も含めて上手に子育てしている母親が、近所の子供の勉強も一緒に見てあげるという形の方が、より大きな信頼を得られると思います。
これが、教育の専業化から副業化への流れです。この教育における副業化と同じものが、地方自治体の議員のような政治の分野にも起こってくると思います。また、ジャーナリズムやアカデミズムの分野にも、次第に副業化の波は押し寄せてくると思います。
顔の見えないグローバリズムの資本主義社会の中で専業として成り立っていた多くの分野が、顔の見える自給自足経済の中では次々に副業化していきます。
このような社会では、かつてマルクスが人間社会の理想として描いたような、朝は教師で、昼は議員で、夕方はジャーナリストで、夜は学者であるというような生活が、多くの人にとって一般的なものになってきます。
しかし、グローバルな分野で機械化、省力化が進み、ローカルな分野で副業化が進むときに、その副業化を促す分野は逆に専業化していきます。
例えば、だれもが副業的に教育や政治やさまざまな仕事に携われるようになる時代には、その携わり方のノウハウを教えるような分野が専業化します。
言葉の森も、子供たちに作文を教えるという今の教室の形態から、将来は、作文の教え方を教えるというような方向に進んでいくようになると思います。
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受験勉強は、夏休みで決まると言っても言い過ぎではありません。なぜかというと、夏休みは朝から晩まで勉強ができるからです。この長時間収集して何日間も継続して勉強できるという環境が、成績を急上昇させる力になります。
と言っても、人間の集中できる時間は限られていますから、中学3年生でしたら、1日7時間(朝3時間、午後3時間、夜1時間)の勉強ができれば十分です。しかし、1日7時間を40日間続けるというのは、中学3年生ではかなり大変だと思います。
夏休みは、塾の夏期講習に行く人も多いと思いますが、塾や予備校での勉強の弱点は、志望校の傾向にも関係なく、自分のわかっていることわからないことにも関係なく、みんなが同じように授業を聴かなければならないことです。つまり、勉強の無駄が多いということです。塾で授業を聴いている時間は、自分で勉強している時間の半分か3分の2ぐらいの密度だと考えておくとよいと思います。
ですから、塾に通う時間とは別に、自分なりに勉強する時間も確保しておくことが大事です。ただし、小学6年生は、まだ自分で勉強の計画は立てられませんから、親がリードするのでない限り塾に通って塾中心の勉強になるのはやむをえないと思います。
大学受験生は、志望する大学と学部によって勉強の仕方がかなり違ってきますから、自分流の勉強の仕方をすることが最も大事になります。日本の大学入試はガラパゴス化しているため、塾や予備校によって至れり尽くせりメニューが用意されています。そういうメニューに乗って勉強して首尾よく合格してしまうと、かえって自分で試行錯誤して勉強するという力が育ちません。できるだけ自分なりの工夫をして勉強をしていく必要があります。
高校入試は受験勉強の傾向が似ているため、中学3年生の塾での勉強は比較的能率よくできますが、この場合でも、自分の得手不得手に対応した自分なりの勉強時間を確保しておくことが大事です。
中学3年生の自分なりの勉強は、次のようになります。
英語は、中1から中3までの教科書を1ページにつき30回ぐらい音読して暗唱と暗写ができるようにしておくことです。また、前年度の英語の全国入試問題集を1冊買って、英語の長文を読むスピードに慣れておくことです。
数学は、自分にとってはやや難しいぐらいの1冊の問題集を、100%1問も残らずできるようにしておくことです。特に大きく差がつくのは、中3の終わりごろに学習する図形の問題です。図形の問題は、できるできないの差がはっきりしています。図形問題を解くセンスは、できなかった問題を100%できるようになるまで何度も繰り返し解くことで身につきます。決して才能の問題ではなく、単純な反復ができるかどうかの問題です。
国語は、問題集読書で力をつけるとととに、志望校の過去問を答えを書き込みながら解いて難易度をつかんでおきます。この難易度を把握しているといないとでは、点数がかなり変わってきます。
理科や社会は、志望校の過去問を答えを書き込みながら解いてみて傾向をつかみます。そのあと、同じように参考書や問題集も答えを書き込みながら何度もくりかえし読むことが勉強の中心になります。大事なことは、じっくり解いたりじっくり書いたりすることではなく、何度も繰り返し読むということです。
以上のやり方は、基本的には小6の人にも高3の人にもあてはまります。
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公立中高一貫校の志望校別の受験コースは、受験の5ヶ月前から始まります。2月の試験の場合は、9月ごろからスタートできます。
公立中高一貫校を志望する場合、夏休み中は、志望校の過去問や、言葉の森の毎週の長文や、日々のニュースなどをもとに、家族の対話に力を入れていくとよいと思います。ただし、子供の話を聞くというよりも、親が自分の体験や意見をどんどん話してあげて、子供の考える材料を増やしていくというのが勉強の中心になります。
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小6かりくの母です。
いつも娘がお世話になっています。
最近学校で行われた、授業参観での娘の授業態度で気になったのですが、一見聞いているようで、実は授業を集中して聞いていない気がしました。
いくら家で親がうるさく言って勉強させても、うっかりミスがなくならなかったり、テストで見落としが多く、いまひとつ良い点がとれない理由は、ここにあるのではとおもいます。
それに今後このことでとても困るのではないかと不安に思っています。
親がいくら言っても本人の自覚がなければ治らないと思います。
そこでお願いなのですが、毎日の暗唱分を、
「いかに学校で授業中、先生の目を姿勢よくきちんと見て、話を集中して聞くことが大切なのか」
を徹底的に説いた文章をうちの子に出して頂けないでしょうか?子どもが自覚を促す文章です。
勝手なお願いなのですが一度ご検討いただけませんか?
それは、たぶんそのときの授業があまり面白くなかったからだと思います。
また、うっかりミスや見落としがあるというのは、愛嬌です。
小学校6年生のころから、そんなにしっかりやっていては、あとが続きません。
本当の勉強は、本人が勉強を自覚したときから始まりますから、それまではきれいな花を咲かせようとするよりも、大きく根を張る時期と考えておくとよいと思います。
大きく根を張るためには、お母さんのおおらかな接し方が必要です。
今度、うっかりミスがあったときは、そのミスを叱らずに、「人間には少しぐらい失敗があった方が魅力的なんだから、このぐらいはかえっていいのよ」と励ましてあげるといいと思います。
あまり、答えになっていませんが。(^^ゞ
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現代の教育の前提に、個人の努力によって個人の利益を手に入れるという考え方があります。
勉強をして、いい成績を取り、いい学校に入り、いい報酬を手に入れることが、教育の成果だと考えられています。そのために、競争に勝つという発想が生まれます。
その根底にあるのは、個人の利益が全体の利益につながるという前提に基づいた個人主義的な考え方です。
日本で初めて個人主義の教育を説いた福沢諭吉の立身出世主義は、当時の社会風潮に対する建設的なアンチテーゼ(反論)でした。つまり、当時の、国内だけに埋没し自己の修養のためのカビの生えた四書五経を学ぶ旧態依然の教育に対して、開明的な個人主義に基づいて西洋の学問を吸収する自立した個人を目指す教育を提案したのです。
しかし、現在、この福沢諭吉の理想は矮小化された形で受け継がれ、小中学生における競争による教育を肯定する風潮を生み出しています。
競争が必要なのは、学校や教員であって生徒ではありません。
呉善花(オ・ソンファ)さんは「私を劇的に変えた日本の美風」(李白社)という著書の中で、日本の文化における、「ありがとう」という言葉の多さ、「おかげさまで」という発想、一生を修行と考えるアマチュアリズムなどの特徴を挙げています。
日本人は、修行というものを、だれでも手順を踏んで学べばそれなりの境地に達することができ、進歩は一生続くものであり、時に個人の才能による成果があったとしてもそれは「おかげさま」であり、社会に還元されるべきものだと考えていました。
一方、これまでの教育は、個人が特殊なノウハウを手に入れて、他人との競争に勝ち、個人の努力に応じた利益を手に入れるという個人主義的な文化を背景にして成り立っていました。
これからの教育は、だれでも同じように進歩できる方法で、だれもが同じように向上し、個人の才能によって得た利益は、相互に社会に還元し合うという発想で行われていくようになると思います。
このような人間観、社会観に基づいた教育は、個人主義に対する集団主義の教育と考えられるかもしれません。しかし、これを、集団への埋没というマイナス面を持った集団主義ではなく、新しい集団主義、敢えて名前をつければ貢献主義の教育と考えていくべきです。
それは、個人の個性を尊重し、個人が才能を発揮することを促しはするが、その個性的な才能から生まれた利益は個人が所有するのではなく、社会の他の人々と分かち合うという考えです。
優秀な子がいた場合、これまで大人はその子に対して、その優秀さを生かしていい地位につき、自分だけ得をしろというような言い方をしてきました。これからは、そうではなく、その優秀さを生かして社会に恩返ししろというアドバイスをしていくようになると思います。
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先日、「小沢革命政権で日本を救え」(副島隆彦・佐藤優 著)という本を読みました。現代の社会を考えるための必読書の1冊になると思います。しかし、今回は、その中のごく一部の話だけ。
この本の中で、副島氏と佐藤氏は、永住外国人の地方参政権について正反対の意見を述べています。
副島氏は、
1、外国人の地方参政権は、ヨーロッパ(つまり世界)のワールド・バリューである、
2、外国人に乗っ取られるほど、日本は柔(やわ)な国ではない、
3、代表なければ課税なしの原則がある、
という意見です。
一方、佐藤氏は、
1、北朝鮮や中国とは、相互主義の原則が取れない、
2、地方自治体であっても、日本が国家として機能しなくなる事態が生まれる、
3、外国人の参政権を課題にすること自体が、国内の対立を生み出す、
という考えです。
そして、二人に共通する見解は、
1、民族の純血性にこだわるべきではない、
2、人種主義、排外主義になるべきではない、
3、日本に帰化できる要件を緩和するべきだ、
ということです。
日本に住んで、同じ顔同じ言葉の日本人の中で暮らしていると気がつきにくいことですが、私たちは、個人でも、市民でも、地球人でもなく、まず第一に日本の国民として生きています。つまり、日本という国が繁栄したり衰退したり、自立したり隷属したりする中で、その国家という土台の上に個人の生活が成り立っています。
国家が豊かになれば、自然に個人の生活も豊かになります。国家が貧しくなれば、それに応じて個人の生活も貧しくなります。国民から強引に税金を徴収して、警察と軍隊を持って政治を遂行できる国家というのは、それほど大きな影響力を持っています。
そして、この国家というのは、私たちから離れたところにある顔のない組織ではなく、私たちが選挙によって選ぶことのできるひとりひとりの集合意識が形を持ったものです。
そのような国家の動向を左右する権利を、国家に属していない人が持つべきではないというのは、むしろこれからの世界のワールド・バリューになると思います。
にも関わらず、今の政治情勢の中では、外国人参政権を推進しようとする政党や政治家が多いのも事実です。
しかし、こういう一種のシンボルをめぐる綱引きのようなところで、日本人どうしが無意味な争いをしているべきではありません。いちばん大きいマイナスは、互いに協力しあわなければならない国民どうしが、大きな一致点を見ずに小さな相違点で争うことなのです。
そう考えると、今大事なことは、日本という国をどのような外国の圧力にも動じない更に「柔でない国」にしていくことです。
そのためには、今の日本人が日本をもっと強力な国にしていく必要があります。しかし、その強力とは、軍事的、血縁的な強力ではなく、文化的な強力です。
日本というものを、つまり、日本の自然、文化、歴史を、日本語を通して自分と一体のものとし、それをいつでも発信できるようにしていくことが、日本人の集合意識である日本を強力にする道です。
もちろん、この日本との一体化をほとんどの日本人は無意識のうちに日々の生活で実践しています。しかし、これから多くの外国人が日本に住むようになったときに、この日本との一体化を自覚的に伝えていく必要があります。
例えば、日本のことをよく知らない外国人に、「日本人ならこうする」「日本文化ではこう考える」「日本ではこうだ」ということを、日本の特殊性としてではなく、世界に共通する普遍性の新しい一部として伝えていく必要があるのです。
これまでは、その自覚が足りなかったために、欧米の基準に無条件に追随してみたり、逆に、日本の偏狭なナショナリズムを主張してみたりするようなことがありました。
これからは、欧米の価値観をも納得させるような、より大きな日本の価値観を作っていく必要があります。それが、新しい日本の抽象化です。
しかし、それは、教科書的な一律の基準でできるものではありません。問題となる事柄のそれぞれのケースに対応して創造的に考えていく必要があります。
例えば、イルカやクジラの捕獲や食用利用について、これを日本の文化と考える人がいます。
確かに、日本人は昔からクジラのひげをぜんまいがわりに使うなど、捕獲したクジラをほぼ百パーセント利用しきる文化を築いてきました。しかし、その前提には、イルカやクジラは魚であり、動物の殺生は避けるが、魚の食用はやむをえないとする誤解がありました。
現在、イルカやクジラは哺乳類であり、人間と同じような喜びや悲しみを感じる動物であるということがわかったあとでは、これを魚と同じ扱いで捕獲することはやめるべき時期に来ています。
イルカやクジラの食用を古い日本文化であるとすれば、新しい抽象的な日本文化は、次のようなものになります。
イルカやクジラに限らず、牛や豚も含めて動物を食用に利用することをやめ、そのかわり、科学技術の力によって大豆たんぱくなどで最高級のステーキ以上の食感を持った食品を開発するという方向です。
同じように、政治や経済の世界でも、議院内閣制、共和制、三権分立制、市場主義など、現在使われている概念はすべて欧米の文化の中で生まれたものです。日本文化には、これらの欧米の価値観を上回る新しい世界のビジョンを作る可能性と役割があります。
欧米の文化に流されないということは、後ろ向きに過去の日本やアジアの文化に回帰することではありません。日本発の新しい世界基準の文化を作っていくことです。
それを軍事力によってではなく、文化的な影響力によって自ずから世界に広がるようにしていくのが、これからの日本の役割になります。
そのためには、日本人がまず日本の自然、文化、歴史と一体感を持ち、日本を世界の模範となるようなよりよい国にしていく必要があります。もちろん、その場合の日本人とは、日本と一体感を持った韓国出身、中国出身、ブラジル出身の日本人であっても、青い目の日本人であってもよいのです。
日本人は、世界中のだれとでも仲よくしていく必要があります。しかし、それは無国籍の顔のない個人としてではなく、日本の自然と文化と歴史を背景に持った日本人として仲よくしていく必要があるのです。
同様に、日本は、世界のどの国とも仲よくしていく必要があります。しかし、それは経済力と軍事力の順位に還元されるような顔のない国としてではなく、日本という政治的、文化的統一性を持った自立した国として仲よくしていく必要があるのです。
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小学校3年生の子のお母さんから質問がありました。森リンのベスト10で、総合点が10位の子と同じ点数なのに、その子が表示されていないというのです。
森リンの上位の点数の差はほんの数点差ですから、総合点が同じ場合は表現点で順位を決めるようになっています。その子の場合は、表現点がほんのわずか少なかったのだと思います。
しかし、問題は、少し別のところにあると思いました。
森リンの点数を作文の客観的な基準として利用するのはよいことですが、小学校4年生までは、それを作文の評価の一つの参考として見る程度にとどめ、その点数による競争や勝敗を目標にしない方がよいのです。
今の受験体制のもとでは、親自身が、競争に勝つことを目標にしてしまいがちです。そして、子供もすぐにそういう競争の雰囲気に適応します。
そこで、動機としてわかりやすいからということで競争を目標にしてしまうと、あとで必ず反動が来ます。
例えば、森リンで10位以内に表示された場合、うれしいからといって、更に上位を目指そうとすることがあります。
しかし、みんなが毎回同じように熱心に作文を書いている中で、ひとりだけ毎月少しずつ上位に進むということはありえません。
文章の進歩は、1年かけて少しずつ進んでいくものです。
毎月、他の人よりも少しずつ上手になっていくという発想自体に無理があるのですが、そういう競争の世界に入ってしまうと、それが無理だと思わずに、親も子も点数に一喜一憂するようになります。そして、この一憂のときに、挫折してしまうことがあるのです。
これは、出発点で、勉強の意欲づけに競争という一見便利なものを使ってしまったからです。
競争がそれほどマイナスにならないのは、勝ち負けをゲーム感覚で考えられるようになる小5以降です。小5から中2までは、年齢的にも、競争に燃えるような時期になります。
そして、中3になると、人間は競争のようなものではなく、自分自身の向上のために努力するようになります。ですから、本当に勉強に身が入るのは、中3以降です。
小4までは、競争よりも、親や先生の心からの褒め言葉が子供にとっていちばんの励みになります。そして、子供にやる気が出ない場合も、やはり親や先生の心からの注意がいちばん力になります。
小学校4年生までは、点数で他人と比較をするのではなく、自分の子供だけを見て、いいところ褒めて励ますようにしていくといいのです。
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―みんなが、この感動的な出来事をあまりくわしく知らないようなので。―
―特に、こういうニュースをきちんと報じなければならないテレビが、肝心なことを伝えていないようなので。―
―今年度、はやぶさの予算は17億円から3千万円に減額された。事の軽重を考えれば、子ども手当や高速道路無料化など他の予算よりもはるかに優先させて未来の科学に投資すべきではないか。―
七年前、限られた予算で、米ロの真似ではない日本独自の技術をもって、火星と地球の間にある直径5百メートルの小惑星イトカワに向けて、はやぶさは飛び立った。
世界初のイオンエンジンとスイングバイの技術検証だけでも十分な成功だったが、それを更に上回り、予測もできない未知の旅を経て、はやぶさは地球から4200万キロメートル離れたイトカワに降り立った。
そして、世界初の、小惑星からの離陸。けれども、相次ぐ予想外の事故から、アンテナがずれ通信が途絶える。
7週間後、はやぶさの発する弱い電波が再び受信されたが、姿勢を立て直すために燃料を捨てることが選択された。
地球への帰還を延期し、宇宙空間を飛び続けること3年間。
再び地球帰還の軌道に乗ったはやぶさには、もはや地球に帰っても衛星になる余力は残されていなかった。
はやぶさの最後の使命は、イトカワから採取できたかもしれない砂の入ったカプセルを、地球に向けて放出することだった。
宇宙技術の先端を行くそのカプセルは、川崎の町工場の60代、70代の職人的な技術者の協力で作られていた。
6月13日午後7時51分、はやぶさから放出されたカプセルは、大気圏に突入し、3000度の高熱に耐え、パラシュートを開き、静かに砂漠に落下した。
最後の仕事を終えたはやぶさは、大気圏で燃え尽きる前に、残ったわずかの動力で自身を回転させて、真っ暗な宇宙に浮かぶ白い地球を撮影した。
かろうじて送られた1枚の半かけの写真に写っていたのは、雲の下に広がる美しいアラビア半島だった。
そして、オーストラリアの夜の空に、流れ星のかたまりのように、はやぶさは、光って静かに消えた。
その光跡がすっかり消えたあとも、人類にとってたった一つの地球をいたわるように、はやぶさの意識は今も大空を回っている。
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