オンライン教育は、ビジネスにはなりません。
MOOCも、結局そこがひとつのネックになっていました。
スタディサプリも、たぶんそこが最も苦しいところでしょう。
もうひとつのネックは、参加者の触れ合いの不足ですが、それはいずれ解決します。
ZOOMなどのツールが発達してきているからです。
ビジネスにならないというネックは、もっと根本的な問題です。
なぜビジネスにならないかというと、それは、今のオンラインが、コピーできるものを対象にしているからです。
コピーできるもののやりとりが中心であれば、それがどんなに優れたものであっても、それでビジネスを成り立たせることはできません。
だから、これからのオンラインは、コピーのできない創造を中心にしていかなければならないのです。
教える先生の側も創造的に教え、教わる生徒の側も創造的に答えるような、そういう創造のやりとりです。
言葉の森の思考発表クラブ、今すこしそういう雰囲気になっています。
今度、自学自習クラスも、そういう創造のある勉強にしていきたいと思っています。
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「葦編三絶」という言葉は、孔子が「易経」という書物をとじ紐(ひも)が三度も切れるほど繰り返し読んだという故事から来ています。
なぜ三度も繰り返し読んだかというと、その内容が理解できなかったからではなく、理解が浅かったと思ったからです。
一般に、難しい本を読む場合の理解は、何層にも分けて考えることができます。
1回目に読む場合、理解するところは、自分が既に何らかの形で理解しているものに近いところに限られます。
2回目に読むと、自分の理解が1回目より進んでいるために、もう一段深く新しいことを理解することができます。
3度目に読むと、さらにもう一段深く理解ができるようになります。
このように繰り返し読めば、それだけその本の内容の理解が深まります。
しかし、1回目に読んだだけでも一応自分なりに理解したつもりにはなっているので、自分の理解が浅い理解だという自覚がないのが普通です。
本を繰り返し読むことが大切なのは、繰り返し読むことによって理解を深めることができるからです。
子供が同じ本を繰り返して読むときも、同じような理解の深化があります。
だから、本をたくさん読む子よりも、同じ本を繰り返して読む子の方が、理解力も語彙力も増えてくるのです。
(つづく)
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写真は、昔の本、竹簡です。
こういう竹に書かれた本を読んでいたから、とじひもが三度も切れたのでしょう。
先日、もう既に何度か読んでいるはずの本を読んでみると、前に気づかなかったことが書いてあることに気づきました。
理解するというのは、その時点で自分が理解できる範囲のものを理解するということに過ぎません。
だから、たくさん読んでも、理解が深まることはないのです。
これは、算数や数学の勉強をするときも同じです。
問題集を何冊も解いても実力はつきません。
1冊の問題集を、できないところが1問もなくなるまで繰り返し解くことで本当の実力がつきます。
(ただし、もうできた問題は解かなくていいのですが)
こういうことを、もっと塾や学校で教えてあげればいいと思うのですが、そういう話はほとんど聞きません。
なぜ本を繰り返し読む子が少ないかというと、ひとつには本が豊富すぎるからです。
しかし、もうひとつには、繰り返し読むことの大切さを知らない人が多いからです。
と言っても、子供が読みたくない本を繰り返し読ませても逆効果です。
繰り返し読みたくなる本を見つけるのが最初です。
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先生「プレゼン作文発表会に参加したい人は、ウェブから申し込んどいて」
S君「それ、なあに」
Y君「プレゼントがもらえる発表会なんだよ」
S君「へえ」
ちがうだろ!
でも、意外とそう思っている子が多いのかと思った、昨日の会話でした。
プレゼン作文発表会とは、ただ作文を棒読みするような発表会ではなく、その作文の中身に関連する、写真、絵、物、音楽、動作、問いかけなどを自由に使って行う発表のことです。
https://www.mori7.net/hpk/
今回は、直接ウェブカメラの前で発表する形にしたので、果たしてどのような発表になるでしょうか。
(前回までは、事前にyoutubeアップロードだったので、ちょっと敷居がたかかったかもしれません。)
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「われ十五にして学に志し」から始まる孔子の言葉があります。
この人生の区分は、多くの人にとって納得できるものです。
15歳は、子供が初めて勉強に対する自覚を持つ時期です。
それまでは、人に言われたり、褒められたり、叱られたりしながら、主に他人の意志で勉強してきた子供が、15歳を境にして自分自身で勉強する必要性を自覚するのです。
昔、15歳が元服の時期で、その年齢から成人としてみなされるということも、この年代の持つ性格の故だと思います。
「三十にして立つ」とは、30歳になると、自分ひとりで何か始める時期が来るということです。
「四十にして惑わず」というのは、その自分の意志で歩き始めた道を、自分で選んだものとして続けて行こうという決心をすることです。
「五十にして天命を知る」というのは、50歳になると、その自分の進んできた道が自分の天命で、これから行っていくことが自分の意志を超えたものだという気持ちになっていくことです。
「六十にして耳順う(したがう)」とは、さまざまな否定的な事柄や障害や困難が出てきても、それを平然と受け入れて前に進むことができるようになるということです。
子供を育てていく場合、この大きな年齢区分を前提に考えていくことが大切です。
「十五にして学に志す」というように、子供が自分の意思で勉強の必要性を感じ、勉強の面白さに目覚めるのは15歳の中学3年生のころからです。
だから、それまでの子育てはこの15歳の自立の時期にふさわしい準備をしていくことです。
15歳までは根を張ることが大切で、まだ早く花を咲かせるような時期ではないということが、親が押さえておく最も大切な考え方だと思います。
「三十にして立つ」というように、これからの社会では、多くの人が自分で独立して何かを始めるような生き方になると思います。
それは、独立起業という形もあるでしょうし、副業やフリーランサーのような形もあるでしょうし、定年後の自立ということもあるでしょう。
いずれにしても、他人や組織に依存するだけの生き方ではなく、自分ひとりの決断で生きていくような時期がやってくるのです。
この自立のための準備が、15歳以降の人間の生き方になると思います。
子育ては、年齢によって重点が大きく変わってきます。
今は、多くの人が勉強や成績のようなところを重視していますが、それは人間形成のごく一部です。
「三十にして立つ」ところまでを考えれば、勉強や成績よりもある意味で大事なことは、愛情のある生活、幸福な生き方、自主性のある行動、何かに熱中する経験、読書に没頭する時間、自然と触れ合う機会、友達と深く関わる経験などです。
これらのバランスをいつも考えていくことが、十五にして学に志し、三十にして立つための子育ての大きな前提になると思います。
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子育ての目標は、いい大学に入るところまでではありません。
まして、いい高校に入ったり、いい中学に入ったりするところまでではありません。
それが当面の目標になることはあり、そのために全力で取り組む必要が出てくることはありますが、本当の目標はもっと先にあります。
では、その本当の目標の目安はどこかと言えば、子供が「三十にして立つ」ところまでだと思います。
それは、子育て中の親が、まだ三十代か四十代かせいぜい五十代なので、それ以上先のことは子育ての問題ではなく自分の問題になるからです。
年端のいかない小さな子供を見るときも、その子が「三十にして立つ」様子を想定して見ることです。
今は、親よりも、先生よりも、全く低いレベルにある子供たちが、やがて親や先生と対等になり、いろいろな面で親や先生を乗り越えていくようになるのです。
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