水曜日の発表学習クラスの発表作品の一部と、みんなの感想(一部)です。
全部の記録は、それぞれの生徒が録画することもできるので、あとで家に帰ったお父さんが、子供の発表の様子を見ることもできます。
発表するために、自分で何かを調べたり作ったりするということが大事ですが、そのあと、自分のしたことをみんなの前で発表し、互いに感想を述べ合うところもそれと同じぐらい重要です。
ほかの人の発表に対して感想を言うためには、頭脳が活性化していなければなりません。
たまに、勉強はよくできるはずなのに、感想を聞かれると、すぐに「ありません」と言う子がいます。
逆に、どんなことを聞かれても、必ず考えて何かを言える子がいます。
この違いは、頭脳の活性度の違いです。
作文でも同じです。
すぐに、「書くことがありません」と言う子がいいる一方、どんな書きにくいテーマが与えられても、自分なりに考えて書いてくる子がいます。
入試の作文では書きにくい課題が出されることが多いので、この差が更に大きくなります。
この書くことがあるかないかの違いが、考える力の余力で、「のびしろ」と言われるものです。
小学生時代は、成績を上げる時期ではなく、のびしろを育てる時期です。
それは言い方を換えれば、欠点を直すのが2だとしたら、長所を褒めて伸ばすのが8の時期だということです。
通常の勉強だけをしていれば、満点を取るためには、×になった欠点を直し続けなければなりません。
通常の勉強以外に、自分で創造する勉強をすることで、○になっているところをたっぷり褒めることができるのです。
【発表作品の例】(一部)
親子作文は、まだ文字が十分に書けない、又は十分に読めない子供を対象にした作文の勉強です。
なぜ、このような早い時期に作文的な勉強を始めるかというと、言葉の森の作文指導は、作文の練習に付随して、暗唱や発表や読書の練習ができるので、それらの総合的な教育効果を考えると、できるだけ早い時期から始めた方がよいと考えたからです。
しかし、まだ字が十分に書けない子に書き写しをさせるような「勉強」的な方法では、かえって子供の健全な成長にいい影響を及ぼしません。
作文のような日本語の学習は、子供時代に最も優先させるべきものですが、それは勉強としてやるのではなく、生活の中での遊びのようなものとしてやっていくものです。
その遊びが、親子の対話です。
作文の題材となるものを親が企画し、その企画で親子で一緒に遊び、その遊びを子供が絵にかき、親子で対話をし一緒に構想図を書き、その構想図をもとに親が作文を書き、ひらがなが読める子はその作文をみんなの前で読んで発表するという形の遊び的な学習です。
ここで大事なのは、第一は親の企画です。これは、実行課題集などを参考に、家庭で楽にできるものに取り組んでいけばいいと思います。
父親だったら、虫捕りとか理科実験や工作のようなものであれば親も楽しめます。母親だったら、料理的なものであれば勝手がわかるので取り組みやすいと思います。
親子でできるようなものが大事で、遊園地に連れていって、子供だけ遊ばせるというような企画ではありません。
よく、作文の題材というと、どこかに出かけて特別なことをしないと書けないという発想をしがちですが、そういう特別なことをする必要はありません。
また、そういう特別な行事作文のようなものは、かえって平板なものになることが多いのです。
それは、子供が、「○○を見た」「面白かった」という受け止め方で、その行事に参加していることが多いからです。
作文の題材には、子供自身が「何かをした」ということが大事なのですが、行事作文では、そのしたこと自体が、ある枠の中で「してもらった」とか「させてもらった」とかいう受け身のものになることが多いのです。
親子作文で第二に大事なところは、親子の対話で構想図を書くことです。
この対話のきっかけは、内容的には親子でその企画に一緒に取り組んだという共通の経験です。そのときに撮った写真などがあれば、共通の経験を思い出しやすくなります。
対話のきっかけとなるもう一つのものは、言葉的なものです。ここで、項目表の項目を使います。
「そのときの会話でどんなことがあったっけ」「数字や名前で何か書けることあるかなあ」「□○□○(擬声語・擬態語)はどこに使えるかなあ」というような対話です。
ここで、その項目を入れることにあまりこだわると、言葉遊びではなく、言葉の勉強になってしまいます。あくまでも楽しい言葉遊びとしてやっていくのです。
その言葉遊びの要素を更に強くするために、今考えているのが、親子作文の項目に「ダジャレ」を入れることです。
親子で作文を書くときは、必ずどこかにダジャレを入れるというようにするのです。
ダジャレは、音素数が少なく同音異義語の多い日本語の特徴です。
幼児期のしりとりは、言葉の数を増やす遊びですが、ダジャレはそれよりも更に多くの言葉の数を増やす遊びになります。
親子作文には必ずダジャレがどこかにあるとなると、子供どうしで作文を発表するときも、聞き手はその作文を集中して聞くようになります。
親子作文は、聞き取る力を育てる遊びにもなるのです。
親子作文の項目は、小学1年生と同じ、「名前・数字」「会話」「たとえ」「□○□○」「思ったこと」などでしたが、親子で取り組むときは更に歯ごたえがあるように、「ダジャレ」も項目に入れるようにしたいと思います。
これで、子供たちの語彙力は飛躍的に増えると思います。
赤ペン添削というのは事後指導です。事前指導というのは主に口頭による指導です。
この事前か事後かという指導の違いが最も大きいのです。
作文指導というと、赤ペン添削を思い浮かべる人は多いと思います。
今ある作文通信講座や作文教室のほとんどが、ていねいな赤ペン添削を売り物にしています。
しかし、その赤ペン添削で子供たちの作文が上達するかと言えば、その度合いはかなり低いのです。
子供は、赤ペンが加えられて返却された作文を、「何かいろいろ書いてあるなあ」という感じで見ます。
熱心に読むのは最初のうちだけです。
たくさん赤ペンが入れられていて、そのほとんどが褒め言葉であればうれしいとは思いますが、それだけです。
赤ペンの内容が注意事項中心であれば、だんだん読む気がしなくなります。
そして、多くの子が、しばらくたつと返却された作文を見ようともしなくなるのです。
「書き上げた作品は、倒したライオンに似ている」と書いた作家がいますが、それと同じで、子供にとって書き終えた作文は、そこに何が書いてあってももう興味を引くものではなくなっているのです。
だから、その赤ペンに書かれた内容を理解して、次回の作文に生かそうと思う子はほとんどいません。
また、講師にとっても、赤ペンの内容で、次回の作文に生かせるようなことを書けることはほとんどありません。
そして、そのほんのわずかのことも、赤ペン添削という形では、子供には伝わらないのです。
では、そのような効果のない赤ペン添削がなぜ延々と続いてきたかというと、その理由は二つあります。
第一は、赤ペン添削は、大人の文章指導にはそれなりの効果があったからです。
大人は、文章力がほぼ完成しているので、その完成したものに赤ペンを入れれば、文章の体裁はよくなります。
それは、実力がつくということとは違いますが、直されればその分だけいい文章になるということはあったのです。
その赤ペン指導を、子供の作文にもあてはめたのが、今行われている赤ペン添削です。
しかし、作文を習う子供たちのほとんどは、まだ文章力が完成していません。
そういう子は、作文に赤ペン添削をする以前に、まずもとになる文章力を作る必要があります。
書いたものを直すのではなく、書く力をつけることが先決なのです。
ところが、そういう文章力が未完成の子供たちに対しても、同じ注意を何度も行うような形で、今の赤ペン添削は続けられています。
長年書いていれば、子供の作文は少しずつ上達しますが、それは赤ペン添削で上達したのではなく、その子が読む文章の量が増えたことによって自然に上達したのです。
赤ペン添削が続いてきた第二の理由は、作文指導の体系というものがなかったからです。
言葉の森が作文教室を始めた30年以上前も、もちろんそうでした。
学校で作文指導や感想文指導を行う先生は、ベテランで文章指導の大家だと思われていました。
その名残りが、今も、読書感想文コンクールの優秀作品に付け加えられている「指導○○先生」という注記です。
作文指導の流れは、長年国語を教えているベテランの先生の頭の中にあるだけだったのです。
言葉の森の作文指導は、このような状況に対して、誰もが同じように教えられる作文指導の体系を作るというところから始めました。
今いろいろなところ行われている学年別の作文指導の基準や、感想文指導の方法は、ほとんどが言葉の森が最初に始めたものです。
しかし、まだほとんどの作文教室や作文通信講座は、詳しい指導体系を持っていません。言わば行き当たりばったりで教えているような指導が多いのです。
また、指導の流れがあるように見えるところでも、「何を書くか」という課題のところでの指導が中心で、「どう書くか」という書き方の指導の流れがあるところはまずありません。
だから、事前指導というものがほとんどできず、そのためにとりあえず作文を書かせて、そのあとに添削をするという赤ペン添削中心の形になってしまうのです。
書かれた作文について添削するだけであれば、指導の体系は必要ありません。
また、ある程度の文章力のある大人であれば、指導のことなどは気にしなくても、子供の作文に赤ペンを入れることはできます。
以上のような二つの理由で、効果の薄い赤ペン添削が、まるで作文指導の定番であるかのように長年行われてきたのです。
では、赤ペン指導に取って代わるものは何なのでしょうか。
それは、事前指導をより発展させることと、赤ペンに代わるアナログ的な指導の仕組みを作ることです。
言葉の森では、事前指導を発展させる一つの方法として、現在、小3から小6の生徒には予習シートを渡しています。小2以下の生徒には実行課題集を渡しています。
実行課題集は、まだあまり活用されていませんが、予習シートはほとんどの生徒が事前に保護者に取材をするような形で作文の準備に使っています。また、予習シートの枠を超えて、自分なりの構想図を書いて準備する子も増えています。
この事前の準備を更に活性化させるものが、寺子屋オンラインでの準備の発表です。
同じクラスのみんなの前で、それぞれの生徒が今週どんなことを書くつもりかを発表することによって、事前の心構えができ、また、他の人の準備も参考にできるようになります。
赤ペンに代わるアナログの仕組みとは、先生や友達の顔が見え、声が聞こえる形での対話と指導です。
これがZoomを使った寺子屋オンラインクラスの特徴です。
また、事前の準備で、書こうとする作文に関する写真などを準備してくる子がいると、そのビジュアルな準備が一種のアナログに近い印象になります。
作文の中身を伝達するだけであれば、デジタルで十分です。
なぜアナログ的なものが必要かというと、人間は、知識の伝達とともに感情の伝達も行うからです。
そして、感情は、アナログ的な外見によって動かされるものだからです。
この感情の動きが、作文を書くための意欲となります。
計算練習や漢字練習であれば、意欲があってもなくても、答えの結果は同じです。
しかし、作文のような答えがない勉強は、意欲があることによって、よりよい作文を書けるようになります。
先日、小3から小5の寺子屋オンラインの生徒と、同じ学年の電話通信の生徒の合計22人をランダムに抽出して字数の推移を比較してみたところ、寺子屋オンラインの生徒は、どの学年も字数の伸び率が1年前よりも高くなっていました。
これは、たぶん、寺子屋オンラインで先生と親だけでなく友達にも見せる作文と、電話通信で先生と親にしか見せない作文との環境の違いです。
アナログ的な触れ合いの多さが、子供たちの学習意欲のち外を生み出しているのです。
では、通学の作文教室のようなリアル度の高い教室ならもっといいかといとそうではありません。
通学の教室であっても、事前指導がなく、事後の赤ペン添削が中心であれば、生徒はどこをどうがんばっていいのかがわかりません。意欲を持とうとしても、意欲を向ける方向がわからないからです。
また、通学形式の教室では、人数が多くなれば一斉指導と一部の人だけの作品紹介になり、人数が少なくなれば友達とのコミュニケーションのない個別指導になります。
通学教室で、同学年の少人数クラスを作るというのは、技術的にかなり難しいのです。
赤ペン添削は、これまで作文指導の唯一の方法であるかのように行われてきました。
それが、学校での作文指導の遅れを生み出してきました。
小学校高学年や中学生、高校生になると、赤ペン添削を前提としている限り、作文指導を恒常化することはできません。それは、先生の負担が大きすぎるからです。
言葉の森のような事前指導中心の作文指導であれば、もっと作文指導を日常的に行えるようになります。
また、寺子屋オンラインのような少人数クラスであれば、子供たちの作文学習を更に意欲的に進めることができます。
なぜ作文学習が大事かというと、作文力は国語力の集大成であり、国語力はあらゆる教科の基礎であるからです。
だから、作文力をつける勉強を基準にして、そのほかの勉強を組み立てていくといいのです。
この事前指導の作文を普及させるために、言葉の森は、これまで言葉の森内部だけで不定期に行ってきた作文検定を、誰でも参加できるオープンな形にして定例化していきたいと思っています。(進度は小1から高3レベルまで)
そして、日本中の子供たちが、作文が好きになり、毎週記念に残る力作を書き、それに伴って親子や友達の対話が広がるような日本の作文文化を作っていきたいと思います。