国語力をつけるということについて、途方に暮れてしまうお父さんお母さんが多いと思います。
国語と言っても、普段使っている日本語です。わざわざ勉強しなければできないなんておかしい思うのが普通です。
漢字が読めないとか書けないとかいうのであれば、知識の問題ですから原因がわかります。しかし、読解の問題ができないとか、記述が書けないとかいうことになると、普段読み書きしている日本語なのになぜできないのか、ということになるのです。
実は、子供は、読めないのでも書けないのでもありません。
正解になるような読み方、書き方ができないのです。
それは、国語の問題の正解というものが、その文章を深く読み、深く書くことを要求しているからです。
ということは、国語は、浅く読むことも深く読むこともできるということです。
日常生活では、日本語は浅く読み取っても十分に間に合うことがほとんどです。
浅い読み方と深い読み方にそれほど大きな差はないからです。
しかし、国語の問題にされるような国語の文章は、浅く読んだら×になり、深く読むときに初めて○になるようにできています。
もちろん、普通の学校の国語のテストでは、そのようにややこしい問題は出ません。
入試問題レベルになると、そういう問題が出てくるので、塾で勉強していると、国語ができないということが出てくるのです。
では、どうしたらよいかというと、いちばんの対策は深く読める難しい文章を読むことに慣れることです。
普段、子供が読む文章、本とか教科書とか雑誌とかいうものは浅く読めるようにできています。こういう文章をいくら読んでも、深い読み方はできません。
そうではなく、直接、入試問題に出てくるような文章を読むようにするのです。
難しい文章でも、全く読み取れないわけではありません。国語の読み取りは、何パーセント読めるかという濃度の問題ですから、グレーの範囲が人によって違います。
これが、算数数学などほかの教科の勉強と違うところです。
算数数学であれば、できるとできないはある程度はっきりしています。途中の計算式によって点数が加算されることはありますが、本質的にできたかできないかの問題になっています。
国語はそうではありません。読み取れる割合によって、易しいからわかる、難しいけどわかる、難しいからわからないという差が出てきます。この「難しいけどわかる」から「難しいからわからない」の間にもさまざまな中間域があります。
このわかる度合いは、難しい文章を繰り返し読むことによって次第に増えてくるのです。
場合によっては、個々の文を取り上げて、その意味を先生に聞くということもあります。しかし、基本はあくまでも自分で読み慣れるということです。
そのための練習法が、問題集読書です。
小学3年生までは、そういう無理をする必要はまだないので、ただ読書をしっかりしていればよいのですが、小学5年生ぐらいになると、入試問題集のような難しい文章を読む勉強が必要になってきます。
ここで、国語の勉強の有利さが出てきます。日本語の文章は、繰り返し読んでいれば、自然に少しずつわかるようになってくるのです。
では、国語が得意になっている人は、もう国語の勉強をしなくてよいのでしょうか。
入試に関して言えば、そうです。国語は、いったん読む力がつき問題を解くコツがわかれば、もう勉強をしなくても必ず一定の点数は取れるようになります。
だから、受験勉強は、入試で差がつくような、そしてあとからの追い込みで間に合うような教科を中心に対策をしていけばいいのです。
しかし、入試という目標を離れて考えると、国語の難しい文章は、入試問題よりももっと先のものがあります。
それは、大学生になってから読むような、日本や世界の古典です。
話は、個人的なことになりますが、私が大学生のときに読んで、難しいので読むのをあきらめた本は、ハイデッガーの「存在と時間」でした。それは、特に、それを読み切ろうという決心がなかったからですが、もしそういう決心があったとしても読んで理解するまでにはかなり時間がかかったと思います。
もうひとつ苦労して読んで、うっすらとしかわからなかったのが、ヘーゲルの「精神現象学」でした。全部読んだので、全体像は頭に入ったのですが、意味が取れないところがあまりにも多かったのです。
しかし、その後、フランスの哲学者イポリットの「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」という本を読んで、初めて大体がわかるようになりました。大体と言っても、半分ぐらいだと思いますが。
このときに思ったのが、入門書が概論書というものは、原典とは全く違うものだということです。
「ヘーゲル入門」などという本はありますが、こういう本を読んでも教科書的な外側の知識がわかるだけで、ヘーゲルが考えた過程がわかるようなことはまずありません。だから、大学生の読書は、まず原典を(翻訳で)読んでみることです。
そして、私は、数年間このように難しい文章を続けて読んでいるうちに、普通の難しい文章が楽に読めるようになったのです。
つまり、難しい文章を読むことによって、普通の難しい文章が簡単に読めるようになったということです。
こういう経験があるから、国語力の本質は思考力にあるということがわかってきたのです。
日本では、国語の勉強は、文化的な情緒の面があまりにも強調されすぎています。
それは、もちろん国語のひとつの面ですが、国語の本質とは少し違います。
世界のそれぞれの国に共通するその国の国語の本質は、その国語で考える思考力なのです。
だから、国語の勉強は、国語的なものにとらわらず、幅広く難しい文章を読み取る力ということで考えていくとよいと思います。
そのためのいちばん手に入れやすい教材が、実際の入試問題です。
その入試問題を読む勉強法でいちばんやりやすいものが問題集読書です。
そして、その問題集読書を楽に続けられるのが、寺子屋オンエアでの毎日の音読になると思います。
ただし、家庭で確実に音読の習慣ができれば、それでも十分です。
言葉の森の作文課題集には、毎週の長文が載っています。それを、感想文課題でない週も含めて、毎日1編音読していくのです。
1200字から1600字の文章ですから、3分ぐらいで読み終える分量です。
これを毎日読んでいると、1週間同じ文章を読むことになりますから、途中で文章の一部は暗記するぐらいになります。それぐらい繰り返し読んでいると、そこに書かれている難しい語彙が自然に自分のものとなり、読み取る力がついてきます。
この長文音読が最も重要になるのが小学5年生以降です。それは、考える力がついてくるのが小学5年生からであり、課題の文章がこの時期から難しくからです。
小学4年生までは、そのウォーミングアップとして、毎日音読する習慣をつける時期と考えておくとよいと思います。
しかし、学校の勉強が忙しくなるのも、この小学5年生あたりからです。
そのため、夜に音読の時間をすることにしていると、いろいろな用事が重なって毎日読むことが難しくなります。
だから、小学校低学年のうちから、朝ご飯前に音読をするという習慣をつけておき、小学5年生以降の多忙な時期も音読の習慣だけは崩さないようにしていくといいのです。
農業では、同じ土地に同じものを作り続けていると、連作障害が出てきます。
しかし、自然の山は、同じ土地に同じ植物が、何年どころか何千年も何万年も育ち続けています。
川田薫さんは、これを、自然の山には岩があり、岩石から出たミネラルが植物を活性化させるからだと考えました。
そして、その仮説を検証するために、岩石の溶液を液体窒素で凍らせ電子顕微鏡で観察すると、2ナノメートルの鉱物の超微粒子があることがわかったのです。(「地球農学の構想」より)
こういう実験の過程を聞いていると、子供だったらわくわくしてくると思います。
そして、いつか自分も科学者になっていろいろな発見をしたいと思うはずです。
しかし、子供たちの科学者の夢を砕くものがあります。
私は、それが、受験数学ではないかと思います。
数学が苦手だからという理由で、早々と理系をあきらめてしまう子がいるのです。
数学そのものは、理屈どおりに成り立つものですから、本来面白い勉強です。
しかし、受験で差をつけるために出される数学は、子供たちに数学に対する苦手意識を作り出しているだけのような気がします。
数学に限らず、勉強はもっとわかりやすく、本質的なものを教えていくべきです。
国語も英語も理科も社会もそうです。
勉強は、子供たちに差をつけるためにあるのではなく、みんなが理解するためにあるのです。
勉強がわかりやすければ、もっと多くの子供たちが科学の面白さに感動を持てるようになると思います。
言葉の森では、小学校2、3年生から勉強を始める子が多いです。
本当は、小学1年生から始めた方がいいのですが(それは、作文に合わせた音読や対話という家庭学習の習慣ができるからです)、小学3年生ぐらいまでに始めると、作文を書くという勉強が毎週の習慣のようになってきます。
そして、いったん毎週作文を書くことが習慣になると、学校の勉強や部活などが多忙になっても、作文を続けていこうとするようになるのです。
作文教室というものは、言葉の森以外にもあると思いますが、ほかの教室では、小学校低学年から始めて高校生まで続けるようなことはまずありません。そこまでの指導カリキュラムがないということもありますが、もしあったとしてもそのように長期間勉強を続ける生徒はまずないのです。
この継続率は、作文の提出率などにも表れてきます。
ある作文講座では、月2回ぐらいのペースで、作文の課題もカラフルでわかりやすいものになっていますが、提出率は80パーセントということです。
言葉の森では、月4回の課題で(うち1回は清書)、作文の課題は感想文も含めたかなり難しいものもありますが、小学1年生から中学3年生までの合計の提出率が94パーセントです。
この提出率の違いは、そのまま継続率の違いになっていると思います。
言葉の森で小学校低学年から作文の勉強を始めた生徒も、中学受験があったり、中学で部活が忙しくなったり、高校受験があったりすると、途中でやめることがあります。
しかし、やめたあとも、また作文や国語の勉強が必要になると、数年間のブランクのあと再開するという生徒がとても多いのです。
大学入試に向けた小論文の勉強では、予備校などでも講座が用意されていると思いますが、そういう予備校の小論文講座ではなく、言葉の森の作文の勉強を思い出して、「小学生のときに教わった○○先生に、また習いたいのですが」というような問合せがよくあります。
なぜ、このように長く続ける生徒が多く、またいったんやめても、必要があると再開する生徒が多いかというと、いちばんの理由は、担任の先生の毎週の電話指導があるからだと思います。そして、もうひとつの理由は、言葉の森独自の褒める指導を中心にしているからだと思います。
もちろん、中には、言葉の森の勉強をしても、あまり軌道に乗らず途中でやめてしまうという人もいるかもしれません。しかし、その理由の中には、家庭のフォローの不足もあるのです。
というのは、作文の勉強というものは、勉強の中でいちばん心理的負担の大きいものだからです。これは、大人の人が実際にやってみるとわかりますが、ほかの勉強に比べると作文の勉強は始めるときに一大決心のようなものが要るのです。
こういう負担の大きい作文の勉強を続けるためには、先生の電話指導だけでは不十分です。
課題に合わせて親子で対話してくるという事前の準備や、子供の書いた作文には直すところに目を向けるのではなくよいところを認めて褒めてあげるような配慮や、毎日の音読と読書を気長に続けるような家庭学習の習慣というものが必要になってくるのです。
こういう家庭での対話や読書や褒め言葉があれば、毎週の指導でどの子も必ず上達していきます。
ただし、作文の勉強は、国語力という大きな土台が下に隠れている氷山のようなものですから、勉強してすぐに成果が出る子もいますが、なかなか成果の出ない子もいます。しかし、長い目で見れば、どの子も必ず上達します。
だから、作文の勉強はまず長く続けられることが大事なのです。